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価値観を含むシステムと、含まないシステム

 人間に関するシステムを考える場合に、規範的(normative)なものを考えるか実証的(positive)なものを考えるかということについて考える。 

 

 経済学(Economics)はよく「社会科学の女王である」と言われる。「社会科学」(social science)という言葉には「科学(science)」という言葉が付いている。科学である限りは、特定の人間の「価値観(value system)」とか、もっと広い言葉を使うと「価値(value)」はその中には含まれない。システムを「価値観を含むもの」と「価値観を含まないもの」の2つに分けるとすると、社会科学で記述されるシステムは、基本的には価値観を含むシステムということになる。そこには「幸福」(happiness)とか「効用」(utility)、「厚生」(welfare)というようなものが入ってくる。

 

 ここに二つの方程式があったとして、そのどちらかが「よい」とか「悪い」ということはできない。ただ「方程式が二つある」というだけのことである。もしそこに優劣をつけるとすれば、「現実はそれらの方程式に当てはまるか」とか、「現実をよりうまく説明するのはどちらか」とか「どちらも現実を説明できるとしたら、どちらの方がシンプルか」オッカムの剃刀(Occum's razor)」)という基準があるまでだ。

 

 ちなみに、科学の範囲でなく、「数学(mathematics)」の範囲で方程式を考えるならば、現実に当てはまらなくても構わない。ただ数学の規則の範囲で正しければそれでよいということになる。だから数学で扱える無限個の方程式の一部に、科学で扱われている方程式が含まれるという関係になり、「それでは数学は科学(特に数学を用いて表される物理や化学)を含むのか」と言えば、それはなんとも言えない。ただし、よく言われるような、「物理学の発展によって新たな数学の分野が誕生したし、反対に数学の進歩によって物理学も進歩した、だから両者は『持ちつ持たれつ』の関係だ」ということについては、「それはそうかもしれないが、だからといって、それが『数学は科学を含まない』ということの証明にはならない」とは言える。そして興味深いことに、数学にせよ、科学にせよ、それらは人間のもつ「想像力」(imagination)の産物だということになるのだが、「それでは人間とは何か」とか「想像力とは何か」と言われれば、少なくともその科学的な説明はまだ存在しない。これから生まれる可能性はあるが。そして直観的には、おそらく「想像力」の方が先に説明がつくんじゃないかと思っている。ここでの直観というのは、「神経科学」と「生物学」が主な土台になっているような気のする直観というくらいのものだ。

 

 さて、「科学の範囲で扱う方程式」の話に一旦戻そう。ここにひとつの運動方程式があるとして、それが「よい」とか「悪い」とか言うのはナンセンスだ。それは「よいか悪いかは知らないが、とにかく物体はこれにしたがって動いている」ということを示しているのであって、科学的に記述するというのはそういうことだ。もし特定の誰かが、「こういう風に動かすべきだ」という風にして方程式を作ったとしても、実際に物体がその方程式にしたがわなければ、それは科学とは言えない。埒外である。

 

 科学とは言えないとしたら、それは何なのかと言われれば、「思想である」というほかない。そして「思想」ということになれば、そこには「価値」という得体のしれないものが関わってくる。「得体の知れない」というのは、直接手で触れたり、耳で聴いたり、要するに「五感で感じることはできない」、「頭の中だけに存在する」、或いは「りんごやコップや車とは違う」というくらいの意味だ。 

 

 価値というのは、一人の人間の内側だけで問題になる場合もあれば、相手との関係で問題になることもある。相手というのは、一人だけとは限らない。それは「クラス全員」かもしれないし、「教員や生徒の保護者も含めた全員」かもしれないし、もっと広く言えば「日本」とか「アジア」ということもある。

 

 ある個人や集団が、他の個人や集団に対して、自分の価値観を示し、納得してもらうという場合、或いはそれぞれの価値観を持ち寄って議論し、参加者全員が合意するという場合、そこには「政治」(Politics)が生まれる。あっさり「参加者」と書いたが、この言葉の意味はそれほど単純でなく、「今生きている人たち全員」(たとえば2015年の日本国民全員)だけとは限らない。将来生まれてくる人々も納得できるようなものを、という風に考えるならば、「今」の時点で彼らの賛成とか反対を得ることは不可能だけれども、彼らも参加者とみなす以上、言い換えれば「同じ集団のメンバーである」(たとえば「日本人の子孫もやっぱり日本人」など)とみなす以上は、やはり彼らについて配慮しなければならないということになる。

 

 合意に達するために、どんな手続きが必要かということを考えるのとは別に、どんな基準が必要かということも考えなければならない。その場合に必要なのは政治学だけでなく、倫理学(Ethics)も関わってくる。和辻哲郎「間柄の学としての倫理学と表現した。それは人と人の「あいだ(間)」をどうするべきか、どういう関係であるべきかを問題にする。そしてその中でどんな基準が論じられるかと言えば、「正義」(justice)ということになる。ある価値観について「それは正義であるか」と問い、参加者から「正義である」と答えられるならば、その価値観は認められる。 

 

 「どうすべきか(should)」(当為)というのは、「人間が自由(free)である」ということを前提にしなければ、問題になることはない。もし、人間もまた太陽の周りを回る地球と同様であったなら、その動き方が方程式にしたがうほかないのだから、「どう回るべきか」ということが問題になることはなかっただろう。問題になったとしても、回り方を「選ぶ」ことはできない。選ぶためには、やはり「自由」が必要だからだ。

 

 そういうわけで、太陽についての倫理は存在しない。ただし、太陽については、科学で全て説明がつくということがありうる。つまり、人間がこれまで気にし続け、今も気にし、これからも気にするであろう「価値」というものを抜きにして、太陽について100%説明できるということがありうる。人間自身もこのようにいくだろうか。「そんなのは嫌だ」とか、「恐ろしい」というような感情はひとまず脇に置いたとして、私はそういうこともあり得るだろうと思っている。つまり「価値」を抜きにして人間を完全に説明できる可能性がある、と。これもまた、直観的に、ということなのだが…。

 

 

………と、ずいぶんと迂回したけれども、ここで経済学の話に戻る。紛らわしいけれども、この記事のテーマは「自由」や「正義」ではないのだ。

 

 人間がものを交換し、消費し、生産し、投資するという場合に、一言で言えば「経済(economy)」について考える場合に、人々が意識していようといまいと、彼ら全員を外から観察していると、ある種のパターン、ある種の法則にしたがっているということがある。「売られる商品の量が増えれば、その商品の価格は下がる」というとき、これはあるパターン(経済学の言葉で言えばワルラス的調整」)である。「増えた方がいい」とか「下がった方が悪い」とかいうことは、このパターン自体の中には含まれていない。言い換えるとそういうパターン、法則の中には「価値」は含まれていない。「ただ事実としてそうなっている」ということに過ぎない。そういうことについてのみ書いたとしたら、それは「経済について科学した」ということになる。経済学と言えば、一般的にはこのような「科学」としての経済学というふうに考える。だからその限りでは、経済学に価値判断を要求するのはお門違いである。

 

 ではどこに要求すべきかといえば、それはたとえば政治学、倫理学に対してであり、いずれにせよ、要求している当の本人が「自分の頭で考える」ということも抜きにしてはならない。

 

 経済というのは、人間の間に成立するある種の「しくみ」である。政治もまた「しくみ」である。経済学はこの「経済」というしくみの中に、価値観を持ち込むことはない。「このしくみが事実どのように変化するか」ということを表すまでである。

 

「事実としてどうか」「どうすべきか」という二つのことの間で、どうバランスをとるかが難しい。しかしそのどちらか片方だけをもとに議論を終わらせてしまったとしたら、その議論は完全なものではないだろう。よく見かけるのは「どうすべきか」だけを議論するパターン(いわゆる「べき論」の多くがこのパターンに当てはまる)で、確かにその議論も必要だが、必要なのはそれだけではないということになる。議論を完全なものにしたいならば、「事実としてどうか」、言い換えれば「『私たちがどうしたいか』ということとは別に、私たちは現実にどういう制約を受けていて、どういうパターンの中で動いているのか」ということについても考えなければならない。

 

しくみの中に価値観を持ち込むこと。人間について、科学的に記述したり議論したりするだけでは、そこに価値は入ってこないが、価値のことも考えるならば、科学とは別の記述、別の議論もしなければならなくなる。しかし今度はそこで科学を抜きに議論したとしたら、それもまた不完全だろう。

 

それでは一体どんな種類の人間が、両方のバランスをとりながら議論できるのか。

 

「文系と理系という区別はナンセンス」という議論があるけれども、「区別できる」ということと、「片方だけを学ぶべき(或いは片方だけを学べば十分)」ということは分けて考えるべきで、混同してはならない。私の立場は、「文系と理系の扱う内容は区別できるが、区別できるからといってその片方だけ、あるいはその片方の中のさらに一部だけをやれば十分ということにはならない」というものである。

 

両方をやって、バランスのとれた考え方で議論したいと思っている。