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情報化時代で問題になるのは「意識」だと思う

26歳 コミュニケーション 内省 学問 思想 情報科学 東京 歴史 生物学 神経科学 科学 経済学 言語学 認知科学

 「無意識」について考えていて、そこから発展した、情報化と意識の関係についての考えを書いてみようと思う。

 

人間が普段やっている判断の9割以上は無意識によって決定されている、と言われる。人間というのはともすると、「意識してものを考えたり感じたりして、それで全て決めている」と考えがちだし、またそうであることに人間らしさの拠り所を求めようとしているようなところすらあるように感じられるが、そうではないと。

 

意識と無意識とでは、意識の方がずっとエネルギーを使う。だからもしも、意識と無意識の脳内活動における相対的な比が1:9でなく、例えば1:1(5:5)だったら、人間はエネルギー消費量が多すぎて餓死してしまうのではないかと思う。「進化」との関係でこの両者のバランスを考えると、1:9というのが「ちょうどいいバランス」ということで定着した、ということなのかもしれない。

 

この辺までは専ら脳の話という感じだったが、ここからこの「意識と無意識」ということを「言語」とつなげて進めていこうと思う。

 

言語は、意識と無意識の両方が担当するが、使うときに自覚的であるならば、それはより意識的な方に傾く。言葉を選んで話すというとき、仮に選ばれた言葉というのが無意識によるものだったとしても、「意識」という門を通って外へ出ていく。

 

言語は、それなしだった頃には渾然一体としていた世界を分けて、その後バラバラになった世界を抽象化し、情報量を減らしていった。意識が言語を使うためには、情報量を減らさなければならないのだから、これは当然といえば当然のことかもしれない。

 

 文明の誕生と継続には言語の存在が重要な意味をもつ。「必要」と書かなかったのは、文字なしでも情報を伝達・記録する方法は世界中に存在したし、今でも存在するからだ。しかし言語を操ることによって、私たちはある世代の知識や思想を同世代の他の人々、他の世代の人々に伝えることがより簡単になったし、それはある意味では、「言語を操る」という、意識のはたらきの産物であるという風にも言える。そしてそういうときには、ある程度まとまった時間、或いは他者と隔てられ、一人きりになって初めて浮かんできた事柄についての、言語による営みがあった。

 

さて、前置きというか下準備が長くなったが、ここからが本題だ。

 

 情報化が進むことによって、人々が使える時間はより細分化されるようになり、そもそも人々にはそんな意図はなかったにしても、技術の普及が進むにつれ、「短時間でお手軽に」ということが進んだ。いや、技術の定義によっては、もはやこの一文は同語反復に近いとすら言えるかもしれない。一方でそれにつれて、言語を用いて、ある程度まとまった時間をかけてものを考えるということがどんどん難しくなってくる。少なくとも情報の洪水の中に、日常的に身を置き続けているような人間の場合には、「じゃあこれは宿題にさせていただきます」ということができない。

 

情報量を減らして世界を整理し、それによって世界についての理解を深めるはたらきをしていた「言語による表現」(テクスト)は、情報世界に参加する人の数が増えれば増えるほど溢れかえるように増加し続け、もはやそれは人工知能研究を進める気運が高まるようになるほどに増えた。

 

ビッグデータの中には、画像や映像だけでなく、大量のテクストも含まれる。多くの人が情報化の波に乗って、色々なことをテクストで表現するようになり、情報を減らすものであったテクストまでもが、情報の海の一滴にすぎないものへ変わってしまう。

 

 テクストまでもが溢れる情報の一部に成り下がってしまうとしたら、そこでは何が世界を整理することになるのか。Googleアルゴリズムか、それとも賢い人工知能か。いずれにせよそれが私たち自身によるものではないとしたら、それはもう「私たちの文明の進歩」とは言えない。それは私たちヒトが進歩するというとき、ヒトの祖先であるサルが、それを指して「これはサルの進歩だ」と言えないのと同様であり、フォン・ノイマンの業績が、彼の両親の業績にはならないことと同様である。

 

情報化の中で、意識をどのようにして活用し続けていくか、情報化と意識との関係をはっきりさせておかないと、私たちの意識で照らされる領域は、拡大しないどころか、縮小さえすることになるかもしれない。