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人工知能と社会科学の関係

人工知能(AI)についての動画を見た。

 動画の後半で、人工知能について考えることを通じて、人間は自分たちがどんなルールに基づいて生活しているのかについて反省する機会を得ることができる、再考を迫られる、そういう側面があるというようなことについて議論されるところがある。

 

【5金スペシャルPART1】松尾豊氏:人工知能が閻魔大王になる日 - YouTube

 


【5金スペシャルPART2】松尾豊氏:人工知能が閻魔大王になる日 - YouTube

 

 

 「人工知能というときには、知性についての人間的な理解のしかた「人間がどのように知性を利用して考えているか」ということについての理解がもとになる。人間から見たら、「知性」というのはこういう風に定義できますよね、という、その理解に基づいて、「ではコンピュータでそれをどう実現させるか」「どういうプログラム(アルゴリズム)を書くか」という流れで考えていくことになる。

 

 ある出発点から結論に至るまでの間の、考えの過程(思考プロセス)については、コンピュータが人間に理解できるレベルを超えて判断するということが起きるとしても(というか分野によってはそういうことがすでに現実に起きているけれども)、少なくとも「それはどういうアルゴリズムによって生じた思考プロセスか」という、そのアルゴリズムのところは、人間がプログラムを担当する限りは人間の側も理解した状態を維持できる。そのプログラムを多くの人間が理解できるかというところは依然として残るだろうけれども、少なくとも一人、プログラマー自身は「これは基本的にはどういうプログラムか」という、アルゴリズムの要点については理解している状態が保持できる。

 

 人工知能でなんらかの知能、知性が表現されるときには、あくまでも「人間は知性というものをどう定義するか」(われわれは知性をこんな風に理解していますよ、宇宙人がどうか、犬たちがどうか、その辺は知りませんがね)ということがベースになっていて、コンピュータ自身が知性について定義するということは、少なくとも今のところはない。だから人間以外が知性を定義したとしたらどんな定義になるか、例えば知性というものを考える場合に「脳」「第二の脳」とすら呼ばれる「腸」、あるいは「身体」は必要か、というところから定義を考え始めると、もしかしたら全く別の、それでいて人間の定義するしかたでの知性をも含んでそれとは矛盾しないような、より普遍的な知性というものが定義できるのか、それに基づいて人工知能を設計するということを行ったらどうなるのか、そういう疑問が浮かぶ。そしてもしそういうものが実現できたとしたら、SF的な発想でいくと、ではそれは人間に害をなすことはないか、という疑問が出てくる。

 

 「社会」(society)という言葉を、人間による集団をさすのに使う。社会にとって有益であるように人工知能を利用するという場合に、「社会」についての知の体系を参照する必要は当然あるだろう。社会科学は科学としては半人前だ、というようなことがよく言われる。しかし、人間以外の主体が人間の社会に参加し、人間が行っていた判断をそういう主体に任せるようになるという局面が訪れるということを想定するならば、「科学的とは呼べないようなやり方、あるいは科学の立場から見れば『不十分』という評価を受けるような水準かもしれないが、これまで人間は、自らが営む社会についてこういう風に考え、理解してきた」ということを確認するためのものとして、社会科学はそれ相応の意義があると考えることもできる。

 

 以前に規範的なシステムと実証的なシステムについて書いた。

 

価値観を含むシステムと、含まないシステム - ありそうでないもの

 

 

 いや、むしろそれは、半人前であるからこそ意義があるとすら言えるのかもしれない。半人前であるからこそ、科学の立場からそれを解明していくときに、何に気をつけなければいけないか、よく考えなければならないということになるので、中途半端に科学的な、下手にわかりやすい科学に基づいて構築された社会科学というのは、なんだか怪しいような気もしてしまう。一人前の科学としての社会科学というものがあるのだとしたら、人工知能が社会について本気で科学したら、人間が現在に至るまでの間に作り上げてきたような体系とは異なる体系をもった社会科学を構築するだろう。たとえ人間的な知性のあり方に基づいて設計された人工知能によっても、そうだろう。

 

 半人前であることには、それ相応の欠点がある一方で、それ相応の可能性もある。子供が大人になるときにもっているものは、そういうものだ。

 

この動画を見ていて、社会科学を学ぶことの意義を再確認させられたように思う。

 

 

【追記】

 ある事柄について、どれだけ可能性があるとしてもこの範囲を超えることはない、この原理をやぶることはできない、そういう限界を「物理的制約」とでも呼ぶことにすると、人工知能の場合は何が「物理的制約」になるか。プログラミング言語、そしてハードウェアとしてのコンピュータ、辺りはそうなるだろう。もちろん一般的な意味での物理化学法則も制約になる。

 

 電気信号の処理を、純粋な信号だけの処理ではなく、「意味」のレベルについての理解を伴った処理と捉えるとしても、依然として現実に行われるのはなんらかのプログラミング言語で書かれた、なんらかのアルゴリズムに則った処理ということにならざるを得ない。そうすると「プログラミング言語」では原理的に記述できない知的な行為というものはありうるのか、という疑問が浮かぶ。「脳」をもとに、電気信号のやりとりという実態を軸にして知性を構成していく限りは、あらゆる知性はアルゴリズムによって表現可能で、プログラミング言語は任意のアルゴリズムを表現可能である、という風に言えるとしたら、問題はなさそうだ。

 

 では、より一般的な形で知性を定義したとしたら、脳や身体、あるいはタンパク質を必要としない、それ以外の素材でも実現可能な、なんらかの普遍的な知性を定義したとしたら、例えば人間でなく人工知能が考えるとしても、もしそういう定義が見つかったら、それはコンピュータがそれを実現できるのだろうか。