言葉と冗長性

例によって、全く関係のなさそうなことから始まって、いつの間にか本題に移っている、そんな構成の文章になってしまった。※この一文は冒頭にあるが、順序としては途中に書かれた。

 

 年末年始にかけて、実家にも帰らずに自宅にずっとこもっていた間、勉強をしながらも「ダウンタウンガキの使いやあらへんで」(がきつか)のダウンタウンの二人によりトークの部分だけを延々とYoutubeで見ていた。

 

途中までは面白く見ていて、それこそお腹を抱えて大笑いし、「ダウンタウンはやっぱり面白いなあ。昔は松本さんのボケの意外性とか奇抜さ、細かさみたいなところにばかり気がいってたけど、それに的確に突っ込むことで初めて笑いに変わる、そんな浜田さんのツッコミもまたすごいなあ」みたいな再評価が生まれたりもしていた。

 

それでも途中からトークの中で下ネタが多いことが気になりはじめ、トークが作り出す笑いの空間の「範囲」というか、もう少し強い言葉を使うと「限界」みたいなものが見え始めて興が醒めてしまい、全く見なくなってしまった。

 

そのあと、「何かを考えて理解するということの面白さ」を求めて、大森荘蔵『知の構築とその呪縛』(ちくま学芸文庫という本を読み始めた。

 

知の構築とその呪縛 (ちくま学芸文庫)

知の構築とその呪縛 (ちくま学芸文庫)

 

 

まだ読みかけだが、大森さん曰く「西洋を中心として構築された近代科学の知と、東洋に由来する思想とは互いに矛盾するものでは決してなく、両立することが可能である」ということが書いてあった。 

 

そのことを読者に納得してもらうために持ち出したのは「冗長性(redunduncy)」オッカムの剃刀(Occam's razor)」で、何かが余分(言い換えると「冗長(redundunt)」)にあるというときに、その「余分なもの」というのは、決してそれなしで構築された体系と矛盾するものとは限らず、ただ余分であるというにすぎない、と大森さんは書いている。

 

そういう記述に触れていたせいだろうか、ちょっと前にあることを考えていたときにこれと似たような考え方の筋に至った。

 

 

 言葉というのは、あるものを切り分けて境界線を確定し、ここからここまではA、ここからこっちはBというように、「ものを分ける」はたらきがある。

 

例えば、机の上にパソコンが置いてあるとき、言葉を使えない原始人がこれを見たら、机もパソコンもひとつながりの、「よくわからない塊」にしか見えないだろう。しかしここに「机」「パソコン」という二つの言葉が持ち込まれると、途端に境界線がはっきりし、現代人からすればなんでもないことだが、机からパソコンを持ち上げることを躊躇しなくなる。

 

そんな風にして、もとはひとつながりだった世界の中に言葉の数だけ境界線が引かれ、その数は国境の数どころではなく、しかも言語ごとに違っていることもよくある。

 

境界線を引いて何かと何かを区別するというのは便利なものだし、名前がないと呼びにくいというのももちろんなのだが、時には区別してしまったことによって却ってややこしくなってしまう、そんな区別もあるように思う。自分の場合は、「男女の友情」「恋愛」の区別というのがよくわからない。最近のtweetを引用する。

 

 

世間ではよく、「男女の友情は難しい」とか「男女の友情ってやっぱりあると思う」とか言われている。でも自分は今のところ、男女には恋愛かそうでないかの関係しかないんじゃないか、と考えている。そして「男女の友情」というのは「恋愛ではない関係」の男女の間で、「恋愛ではないという表現ではネガティブな感じでいやだから、付き合っていない場合は友達ということにしようよ」式に決まった、そういうものなのではないかと思うのだ。

 

ここで少し話がそれるように思えるかもしれないが、「何かを定義する」ということをちょっと考えてみたい。定義されたものはすべて、「〜は◯◯である」という積極的(肯定的)な定義の仕方と、「〜は◯◯ではない」という消極的(否定的)な定義の仕方の二つに分けることができる。もちろんこれは分け方の一つに過ぎなくて、人間をAとBとOとABの4つに分ける分け方(ABO式血液型)と同じで、それなりに意義はある一方で、限界もあるだろう。

 

ただ「友情」ということを考えるときには、やっぱり気持ちとして積極的な定義をしたい。だから「〜は◯◯でない。だからこれは△△だ。」というしかたで男女の友情を定義する気にはなれないのだ。だからこういう考え方の筋でいくと、自分としては「男女の友情」ということを少なくとも肯定的に考えることができない。

 

では「男女の友情」という言葉が余分な言葉(本来なら存在しないものに、あえて名前をつけているだけの、冗長な言葉)なのだとしたら、それは矛盾を引き起こすものなんだろうか。

 

「余分」くらいならまだいいが、もう少し強い言葉を使うなら「余計」とまで言ってしまえるものなのだろうか。

 

「男女の友情」というのは、男女には本来は恋愛しかない、というのが科学的な、或いは生物学的な回答なのかもしれないが、それでは人間同士の関係を大きく制限することになってしまう。だから恋愛関係にない男女の間にも、建設的な関係の可能性がありますよ、こういう付き合い方であれば、恋愛関係になくてもよい付き合い方ができますよ、ということで生まれたものなんだろうと思う。まあこんなこと、考えるまでもないことなのかもしれないが、やっぱり自分なりに考えて、答えを出してスッキリさせておきたいと思う。

 

さて、そんな風に「男女の友情」ということを考えるならば、現実には「否定的な定義」として始まったものだとしても、そこには建設的な意味もある、そんな言葉だというふうにまとめることができて、どうやら「余計」とまでは言わなくても済みそうだ。

 

オッカムの剃刀では剃られてしまう類のものかもしれないが、なんら他のものと矛盾をきたすようなことはなく、それなりに自分の居場所を保つことのできる、そういう言葉のひとつなんだろう。