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よい面を活かすことのむつかしさ

アニメ「もやしもんリターンズ」の第10話を見ていて思ったことを書いてみようと思う。

 

そこではワイン作りについて登場人物が会話するシーンがあるのだが、そのシーンを見ていて、

 

「ああ、何かを科学的に営むというにしても、結局それが人間の手によるのだとしたら、人間的なことについても理解しておかなければならないんだなあ。人間がどんな風に新しい発想を生み出すかということは、科学的にはまだ説明がつかない。人間による営みが前進するというときには、どこかで誰かが新しい発想を生み出した、ということがきっかけになっている。そういう人間の性質に由来する変化について、きちんと科学的なメソッドと並存させながら物事を進めていかなくてはいけないんだろうなあ。」

 

というようなことをふと思った。

 

ヒューマン・ファクターという言葉がある。制度や組織を人間が営む場合に、人的要因について理解しておくことの重要性について、いろいろなところで繰り返し議論がなされてきた。それはとりわけ、「いくら人間に教育や投資を行っても、100%の精度でエラーを避けることはできず、人間によるエラーということをあらかじめ想定した上で制度や組織の運営を考える必要がある」というような形で展開される。

 

もちろん「ヒューマン・ファクター」という言葉自体は、ネガティブな意味だけを含むものではないけれども、ヒューマン・ファクターについて考えるということは「ヒューマン・エラー」により生じうるリスクをどう管理するか、ということを考えることと、基本的には同義である場合がほとんどだ。

 

物事を管理する、マネジメントするというときには、特にそのネガティブな要因について注意し、それをいかに減らしたり抑制したりするか、という形で議論を進めるという考え方の筋がある。それは、上に述べたような制度や組織の管理の分野に関する議論だけではなく、個人の内面について考える場合にも、同様な発想を見つけることができる。例えばフロイトはまさにそういう立場で、コンプレックス、抑圧、無意識に潜む負の要因に、いかに向き合うかということを研究の基本的な立場としている。

 

河合隼雄さんの『こころの読書教室』(新潮文庫という本を読んだ。そこから少し引用する。引用中に登場する「それ」というのは、「無意識の自我」(フロイトの言葉では「エス(Es)」)というように思っておいてもらえばいいかと思う。

 

あっちへ飛んだり、こっちへ飛んだりするのを、心を開いてついていくと、面白い答えが出てくるんですね。それは、僕が言う答えではなくて、その子の”それ”が答えを出してくれるのです。そういうふうな会い方をしているときと、そういうことではなくて、僕が答えられる時とは、場合によっては分けなくてはならないのです。だんだん、だんだんそういうことが上手になっていくためには、ここにあげたような書物を読むことも必要なわけです。

 そのときに、ユングとかフロイトとかいう人は、夢を聞こうと考えだすわけですね。つまり、夢は、まさに”それ”が夜中にいろいろ見せてくれるわけですから。夢を聞いて、夢を頼りにやっていこうと考えると、”それ”というやつは、プラスの面とマイナスの面とある。

 そのときに、プラスの面もマイナスの面もあるということをすごく強調したのがユングです。フロイトのほうは何とかしてマイナスのものをしっかりつかんで、やられないようにちゃんとしようというほうの側に重点を置きました。ユングはプラスもあるから、プラスもマイナスも一緒に入れ込みながら、マイナスにやられないようにしながらプラスを何とか生きようとしたほうがいいのではないかとすごく強調しました。だから、ちょっと態度が違うのです。どちらにしろ、”それ”というのが大事だという点では同じですね。

(『こころの読書教室』「Ⅰ 私と”それ”」68、69ページより)

 

こころの読書教室 (新潮文庫)

こころの読書教室 (新潮文庫)

 

 

 人間について、「ポジティブな面をどう活かすか」というのは、「ネガティブな面をどう管理するか」ということを考えるのとはまた違う難しさがあるように思う。というのも、そのポジティブな面というのが「創造性」(creativity)と結びついている場合が少ないないためで、「創造性」というのは、定義することができないからこそ創造性なのだ、という、なんとも厄介な代物であるだけに、「定義することで話が進む」という考え方の筋でいる限りは、ニッチもサッチもいきませんわ、ということになってしまう。

 

この辺のことは先日書いたこの記事とも関わってくるように思う。

迷路の壁と、道を選ぶ人間 - TOKYO/26/MALE

 

つまり、あることについて、人間がこれからどう進んでいくべきかとか、どう進むのが合理的かというようなことについて、科学によってかなり明らかにすることができる、光を当てることができるという面は確かにあるという一方で、それでもなお「この道しかない。この道がベストだ。」というところまで経路を絞り込むことができるレベルの科学的知見には達していないとするならば、そこから先はやはり依然として「人間による決断」とか「創造性に委ねる」ということにならざるを得ないのではないかと思うのだ。

 

 安易なアナロジーは避けるべきだが、あえてアナロジーを使うならば、経済の予測と対応ということについて、かつて経済学の古典派は、長期(Long-runあるいはLong-term)の視点に立つことを強調したのに対し、ケインズ「In the long run, we're all dead.(長期的には、我々はみんな死んでいる)」と皮肉交じりに応酬し、短期(Short-runあるいはShort-term)の視点に立つことの意義を強調した。つまり、長期ではいろいろな歪みや不合理な部分が調整されて、理想的な状態が、政府の手によらず、民間の活動のみによって達成されるかもしれないが、その頃に今いる人々が死んでしまっていてはしょうがないではないか、と。それならば、短期の間に、政府の介入を許してでも、民間の経済活動の歪みを調整することには、一定の意義がある、と。

 

たとえば、「現在の状態X」から「ある理想的な状態Y」に到達するために、100年の長さをかけてたどる「経路A」というのがベストだと判断できたとしよう。他のどの経路と比べても、その経路以上に効率的な経路は存在しないと断言できる、人々に説明できる、そういう経路があると。ではそれについて、現在生きている人たちが納得するだろうか。民主主義的な合意の手続きに基づいてそれを決めようとするならば、おそらく反対多数なのではないかと予想できる。現実に選ばれるのは、最も合理的な経路、ベストな経路(ここでは経路A)ではないとわかっていても、現在の人々がなんらかの基準で納得する、なんらかの基準で自分たちにもメリットがあると考える、そんな経路(仮に「経路B」としよう)なのではないか。

 

その経路について、経済学の立場からすれば、「いや、しかしその経路はベストとは言い難い。現在の世代と将来の世代を公平に扱う限り、経路Aこそがベストであると我々は考える。」と主張するかもしれないが、決断を下すのがあくまでも現在生きている世代であって、どの世代も自分たちが生きている世代のベネフィットを他の世代のベネフィットよりも優先するという仮定を設けるならば、選択されるのは経路Bになるだろう。

 

Under such circumstances, we never choose path A.

(そういう状況のもとでは、私たちは決して経路Aを選ばない。)

 

 

「人間のよい面、とりわけ『創造性』ということと関連して、人間がなにかを決断するということをどう考えたらよいか」という議論の筋と、このアナロジーとは、どう絡むか。

 

つまり、こういう風にである。創造性によって人間が前進していくというときには、目標となる状態へ到達する経路を、前もって決めたり予想したりすることはできない場合が多い。

 

iPhoneが作られたとき、スティーブ・ジョブスの頭の中には、「到達すべき目標」(つまりiPhoneのイメージ)は見えていただろうが、「それをどうやって実現するか(どういう経路をたどるか)」ということについては、おそらくきちっと決まってはいなかっただろう。そして決まっていなかったからこそ、それは「創造的」な製品であり得た。

 

ある到達目標を設定し、そこに到達する経路について、なんらかの科学的なアプローチによって十分に検討し、「こういう行き方で行くのがベストだ」と判断してしまうと、そこには「創造性」というのが入り込みにくくなってしまうのだ。なぜならばそれはすでに決定されてしまっていること、これから生み出されるべき何物も、そこにはないからだ。創造性とはいつも、これから先に生み出される、未知のものに関わる。

 

よい面(とりわけ創造性)を活かすということは、それについて何か結論を下してしまったとしたら、その瞬間に誤りに陥ってしまう、そういう側面があるように思う。