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値札がついていない洋服を買うとき

値札がついていない洋服というのがある。高い服の場合には。そういう服を買う時というのは、なにか自分の期待が外れた時に、それを反省していて気づかされることと関係があるように思える。そんな話を書いてみようと思う。

 

相手に何かを期待して、それが敗れると悲しかったり怒りを覚えたりする。

 

自分がこうすれば、それに対して相手はきっとこうしてくれるだろう。

 

でも実際にはそうならなかったときに、「どうして?」と思い、その後には「私は〜なのに」と続く。それは意識してそう思っている場合もあれば、無意識に思っているだけで本人は気付いていないということもある。後者の場合には、誰かにそのことを指摘されて初めて自分の気持ちに気付く、ということになったりする。

 

外れてしまうくらいなら、初めから期待なんて持たなければいいじゃないか、というわけにもいかない。それなしでは前に進めなかったり、進まなくても、立っていられなくなったりすることさえある。

 

期待とよく似たものに、「希望」がある。「きっとこうなる」と信じて、なにかをする。裏切られれば、悲しくなったり絶望的な気分になったりする。「裏切る」という言葉からして、すでにネガティブなニュアンスを含んでいるから、そこを差し引いて考えても、期待したり望んだりした通りにいかないと、やっぱり辛い。

 

そこで自分を振り返ると初めてわかったりすること、気付かされることがあったりする。

 

ああ、自分は自分がしたこういうこと(ギブ)に対しては、これくらいの「見返り」(テイク)が釣り合うと考えているんだな、と。

 

自分の気持ちや行動に対して、どれくらいの価値があると考えているのか、それがどらくらいに価すると思っているのか、そういうことが反省しているうちに見えてくる。それは高級ブランドの衣料品店に行くと、服の値札が内側に隠れていたり、あるいはそもそも値札が付いていなかったりして、値段がすぐにはわからない、そんな状況と似ているように思えるのだ。会計してみてはじめて、「ああ、これにはこの値段が付いていたのか」と気付く、あの感覚と。

 

 「これにはこれくらいの価値があって、あれにはあれくらいの価値があって、それにはそれくらいの価値があって・・・」というのが相手とも共有できるとき、人はその人に気持ちを寄せるようになったりする。「常識」とか「普通」という言葉でひとまとめにされている「これはこれくらいの価値」というのは、ある程度の数の人々、例えばそれは同じクラスの人たち全体、同じような場所で遊ぶ人同士、同じ芸能人が好きな人同士、もっと広く日本人全体であったり、アジア全体であったりするかもしれない。

 

この範囲の人々の間では、ガーナチョコレートには100円の値段がつけられている、と。

 

それは「常識」の範囲ではそうなる。「ただし法律の範囲では」とか、「標準的な経済学の論理が通用する範囲では」みたいな但し書きがつくかもしれないけれども、まあそうなる。

 

しかし「いや、ガーナチョコレートは私にとっては100円以上の価値がある。だからもしそれが300円で売られていたとしても、なお私はそれを買うだろう」という人がいるかもしれない。もちろん実際には、そういう人でも「常識」にしたがって、「税込108円」以上を支払うことはない。

 

だから、常識にしたがって税込108円を支払い続けているだけでは、それ以上の金額を払いたい人、逆にそんなに払いたくない人は見つからない。実際には、ガーナチョコレートの値段は人によってバラバラ・・・という方が、リアリティーがある。もちろん、そういうごたまぜになった色々な人々の間で、裁定がはたらいて、値段がある金額に決まるわけだけれども。

 

それは、170センチちょうどの人は中に一人もいないのに、クラスの平均身長を計算したら170センチちょうどになる、そういうことと似ている。実際には誰も「ガーナチョコレートは100円の価値あり」とは思っていないかもしれないのに、100円の値段がついて、税金が上乗せされて108円になる。

 

値札がついていない洋服を買うときに、「これはこれくらいの値段だろう」と気にしながらレジに持っていって、値段が表示されるあのときというのは、相手にかけていた期待が外れて失望を味わい、それについて反省しているときと同じように、自分の価値観が明るみになるときなのかもしれない。