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歌があなたを代弁しているのか、それともあなたが歌を演じているのか

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 Twitterでの色々なツイートや、Facebook上の投稿などを見ていると感じるのだけど、誰かの歌(の歌詞)の影響を受けていることが明らかで、怒濤のように感傷的なポエムを量産していたり、せっせと「報われない、悲劇的な人生を、それでも生きる自分」をアピールするかのような主張をする人が少なくない。これはSNSが出てくる前からあったことだけど、目にする機会は、SNSによって増えたなあと思う。

 

そして自分自身についても、これは多かれ少なかれ当てはまるところがある。ミスチルの「Another Story」を聴いている時、村上春樹の小説を読んでいるとき、自分は確かに、「自分自身」というよりも、「その歌やその小説に表現されるような別の誰か」になっているようなところがある。

 

すると「Life is a song.」というような表現もなんだかわかる感じがする。自分の気に入った歌のコピーとしての、自分の人生。それはもはや歌だと言っても差し支えなかろう、と。 

 

 これは先日の記事に書いたような、「人は自分の満足のいく、自分にとって都合のいい物語に合わせて自分を語りがちだ」、ということの一例なのかもしれないが、歌の歌詞を自分の人生として生きる、自分の日常を歌の世界に作り替えて生きる、というような人が少なくない。

 

「あなた(私)はあなた(私)の人生を生きてるの?それとも今年100万枚の記録的ヒットを記録したあの曲を忠実に再現する人生を生きてるの?どっち?」と。

 

言葉というのは、こういうとき本当に便利なものだなあ、と思うけれど、上の疑問に対しても、「いや、そんな風にして『誰かの作ったものを生きる』ということも含めて、その人の人生ができてるんじゃないの?」という言い方ができてしまう。これは「人格ってなに?」というところがハッキリと片がつかない限り、答えることの難しい反問かもしれない。

 

歌がその人の気持ちを代弁しているようで、前後関係が反転し、実は歌がまず先にきて、それに触れた誰かがそれを自分の人生で再現する、という順序になっているような状況。

 

 そしておそらくは、そうして再現した人の数がけっこう増えてくると、それをどこかで何らかのきっかけで知ったアーティストが、詩で表現し…というループがもし生じていたら。

 

これはよろしくない連鎖のように思える。辿りに辿っていくと行き着く、そんな終局点がないのに、いつ始まったかもわからないまま、いつの間にか始まっていた「オリジナルの見えない悲劇」が、続々とコピーを生み、コピーは新しいオリジナルを生み出し、それは次なるコピーを…という連鎖。

 

歌によって新たに作られた「感傷の浸り方」みたいなものが、広がってきている。

 

またしても言葉が、なんらかの実体との対応を欠いた「虚構」を生んでいる、そういうことを目の前でまざまざと見せつけられているような感覚を覚える。