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記憶

この動画(※オリジナルの映像は1982年のもの)を時間を置いて繰り返し見ている。何度観ても飽きることがない面白さ。

 小説家の安部公房さんと分子生物学者の渡邊格さんの対談。


安部公房 ・渡邊格 対談完全版 - YouTube

 

この動画を観ていて考えること・テーマなどを簡単にリスト化すると、

①「物質・生命・精神の進化が、宇宙全体の発展の方向と一致している」(渡邊格)と考えるならば、精神の次があるのか、ありうるのか、それは言語の問題と関わるか。

②「記憶の再定義の問題」(渡邊格)について、「記憶(memory)」というのはニューロンの発火(neuronal firing)のパターン(或いは配線の使われ方のパターン)についてのある種の「慣性(inertia)」のようなものなのか、それは物理化学系におけるどんな反応に還元して説明することができるのか。

③「決定の問題」(渡邊格)について、現在は「自由意志(free will)はない」という考え方もあるけれども、物質レベルでの裏付けはどうなっているのか。

④人間が個人や集団のレベルで「言葉」に影響されるというとき、実際に影響を及ぼしているのは物理化学系では何なのか。

⑤「美しい」ということが何かの原因でなく、あくまでも何らかの精神活動の結果であるという風に考えることができるのかどうか。

⑥人間、或いは生命、更には精神というのが、「宇宙全体」の立場から見たときにどれくらい特殊(或いは普遍的)なものなのか。宇宙が生まれればある程度の時間が経てば自然と人間、生命、或いは知性のようなものが生まれてくるものなのか、それともこれらの誕生はなんらかの偶然にすぎないのか。

 

などなど。この記事ではについてちょっと考えたことをまとめておこうと思う。

収束的な思考というよりも、発散的あるいは展開的な思考が目立つのは我ながら相変わらずのようで。

 

「記憶(memory)」というのは、今(2014年現在)でもまだ、定義がうまくいっていないんじゃないかという気がする。映像の中で、「記憶がなければ精神も成り立たない」という指摘がある。もちろん言語活動もそうだろう。

 

精神にしても、その一部*1としての言語活動にしても、それは「記憶」と今呼ばれているようななんらかの仕組み(属性?現象?)を持っていなければ展開不可能な活動だと思う。いくらレシピがわかっていても、冷蔵庫の中に材料が入っていなければ、実際に料理を作ることはできない。

 

今こうして文章を作り上げている活動について考えてみても、数多くの単語が頭に入っていないと成立しない*2そもそも記憶にない言葉を人間は使えないから、世界を新しく把握しようとしても、少なくともそれを「言葉で表現する」という時には、既知の言葉の新たな組み合わせを探したり、「アナロジー(類推)」によってある言葉を従来とは異なる使い方で用いる探すことくらいしかできない。*3

AとBとCがあって、AとB、BとCの組み合わせはあっても、BとCの組み合わせがないならば、それが「新しい世界像」という形で成立する余地はある。無から有は生まれない。

 そう思う。

 

 さて「記憶なしには精神活動は成り立たない」というのは「メモリー(記憶装置)がなければ計算機(computer)という機械が成り立たない」という計算機の活動と同じレベルの話なのだろうか。

 

どちらもある程度の手順(これを「アルゴリズム」というか否か…)をもって何らかの情報を処理していく活動だと言う風に捉えるならそういうことになるのかもしれない。よく使われる(思い出される)情報は他の情報に比べてより簡単に引き出せるようになる。

 情報の内容によってその度合いはまちまちだけれども、平均的に見れば思い出される回数に比例して思い出しやすさも向上していく。

 

 自分の場合で考えてみると、学部にいた頃は経済学を中心に学んでいたから、経済学に関する色々な定理や人物名、数式などを思い出しやすい状態だった。(厚生経済学の第一定理、リカードの等価定理、ケネス・アロー、MV=PT、ブラック=ショールズ方程式など)けれどもここ2、3年の間に、考えるテーマとその土台となる学問分野が経済学から複雑系科学ネットワーク科学生物学などに切り替わった。さらに本当に最近では塾の高校生を教えるために独学で学び始めた化学生理学用の知識ネットワークができてきているような感じがする。まるで自分の脳内でダイナミックに大工事が進んでいるような感覚だ。

 今ではそれらの知識を思い出す様の配線が整備されているような感覚が、ぼんやりとではあるが、ある。

 

それでもやはり、ここで経済学を復習すれば、かつて使っていたネットワークが復活して、また日常的に経済学的なものの見方をするようになるだろう。或いは推理小説を読めば中学生の頃の感性を取り戻すということもあるかもしれない。引き金になるのは読書だけでなく、匂いや場所や話す相手など、色々ありうる。

 

おそらくはそのすべてが、「記憶」はされている。ただ「思い出しやすさ」の順位が異なっているだけで。ではそのランキングの変動は一体なにを意味するのだろう。それは物理化学の視点で見た場合にはどのように説明されるのだろう。

 

神経科学、大脳生理学の視点から見た「記憶」の定義は、物理化学の視点から見た場合のそれと、整合的なんだろうか。

*1:精神と言語の包含関係は、逆だということも或いはあるかもしれない。つまり「言語活動と呼びうるような、ある種の活動がまず生じて、その上で初めて「精神活動」が生じてくる」という関係かもしれない。もちろん、これら2つのものをどんな風に定義するかによって、ここのところはケリがつくんだろう。動物の研究なんかを見ているとヒト以外にも、見方を柔軟にすれば言語活動と呼びうるような活動を行っている動物、或いは(ヒトの)言語を解する能力をもつ動物の話なんかもけっこう目にする。イルカやサルや犬など。

*2:「入っている」という言い方が適切かどうか微妙な感じもする。記憶というのはよく引き出しの中にものを入れる比喩で表現されるけれども、実際の活動としての記憶を考えると「入れる」という動詞で表現できるような活動があるのかどうか。ここでは「入力(input)」の意味で用いている。

*3:「少なくとも」と書いた。それは言葉で表現しないやり方で世界を把握するということも可能かもしれないからだ。それをどうやって示すのかは言葉の側からは可能なのかはわからないし、非言語的なことについてこんな風に書くこと自体が既に無理なことなのかもしれないが。まああくまでも「言葉にされなかった」事柄であって「言葉にできなかった」事柄ではないから、それを言葉で表現するのは不可能だと示されたわけではない、という様に考えることにしている。