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余白

ある事柄Xについて説明するとき、「それは赤い(属性A)」だけだと色々なものが該当する。

 

りんご、トマト、若戸大橋(地元の若松区戸畑区に架かる橋)、レクシス英和辞典の箱、『マンガでわかる自然治癒力のしくみ』の表紙、岩波新書の表紙、プーさんの着ている服、ふなっしーの胸のところについているリボンなどなど。

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(自宅にて筆者が撮影。プーさんのツムツムである。)

そこに「丸い(属性B)」を追加するとどうなるか。「それは赤くて、丸い(属性AかつB)」

 

さきほど列挙した例の中でこれに該当するのはりんごとトマト、そしてプーさんの着ている服(なにしろ着ているのがプーさんだから、丸く見えてしまうのだ)にしぼられる。

 

これは「条件を追加すれば、該当するものの数は減っていく」、という様に言い換えることもできる。これは検索エンジンを使って検索ボックスに調べたい単語を打ち込むとき、いつも起こっていることだ。Googleでちょっと試してみた。

①芸能人→約 76,400,000 件 (0.22 秒) 

②芸能人 熱愛→約 959,000 件 (0.15 秒)

③芸能人 熱愛 ブログ→約 766,000 件 (0.32 秒) 

 

言葉を付け足せば、だんだん当てはまるものの数が減っていく。

 

「赤い」だけだと色々なものを想像する余白があったけれど、そこに「丸い」が加わると、余白はいくらか減った…だろうか。これだけではよくわからない。

 

しかし赤くて丸く、野菜。と言われれば、「トマト」が頭に浮かび、これは「赤い」だけのときよりも余白が減ったような感じがする。

 

もちろん「トマト」とわかれば今度はトマトのディテールを想像していく方にスイッチが切り替わって、そのディテールに関する想像の量は「赤い」だけのときよりも多いということもあるかもしれない。具体的である方が、何か抽象的なものを想像するよりも想像がわきやすいということもある。つまり「情報が少ない方が想像するための余白が大きい」と一概には言えない。単純な比例では考えることができない。

 

しかし小説の場合、隙のない文章というのは確かにあって、なにもかもが文で書かれていると、読む気が失せてくる、ということはある。風景描写に託して登場人物の心理を描く、というのであればまだいいのだが、何でもかんでも登場人物が口に出してしゃべってしまうとちょっと興ざめである。そこには余白がない。言い切ってしまっていたら、内容にふくらみがなくなる。

 

或いはライトノベルやアニメでよくあるが、「フラグ→回収」というパターンの構成もあまり好きではない。それはそれで楽しむこともできないではないが、「こういう風に読んでください」というレールを強引に敷かれ、それ以外の読みを許さない感じがしてつまらなく感じてしまうのだ。これが推理小説なら納得できるのだが、心理描写でこのパターンを使われると、「おいおい、お前らは一定のフラグに一定の反応を返すマシーンなのか」と思ってしまったりもする。まあ現実の人間がそうではないとは言わないし、科学的研究であれば興味があるけれども。ホルモンとか神経伝達物質、ミラーニューロンに関する研究とか。

 

話に余白があると、こちらも作品世界に参加する余地があって楽しめる感じがする。

 

「部屋の中」でも、「自分の心の中」でもそうだけど、ゆとりや余白というのは大事なものだなあ。