主語を変えること

「無生物主語」という概念がある。「その事故は彼女を悲しませた。」というアレである。「主語はいつも人間だ」と思っているととんだところで足下を掬われるかもしれない、いや既に掬われてしまっているかもしれない、今回はそんな話である。

 

まずはこの文からスタートする。

「私は砂糖を食べている。」(文A

主語はもちろん人間だ。そして人間が主、砂糖が従・・・という風に考えることができる。一見明白な主従関係で、何も不自然なところはないように思える。

 

ここで主語を反転させ、文をいじってみる。

「砂糖は私に、自らを頻繁に利用するよう巧妙に働きかけている。」(文B)

こう書いた時、先ほどの主従関係がなんだか怪しくなってくる。

 

人間が砂糖を食べるのであって、コントロールしているのは人間の方だと思っていたのが、実はそれは全くの誤りで、人間は砂糖の甘みに籠絡され、次から次へ、そして継続的に砂糖を口にするように誘導されていたのではないか、とそんな風に思えてくる。

 

こんな風に主語を反転させるという考え方を、自分は高校の英語の授業で「無生物主語」 を習ったことで身につけたような気がする。

 

もちろん日本語にもこういう考え方はある。「言霊」でもいいし、「八百万の神々」でもいいのかもしれない。きっかけがないわけではない。

 

ただそう思えることも、自分の場合はやっぱり最初に「無生物主語」について教わったからだろうと思う。

 

そして「自分の意志で生きているのではなく、実は自分以外の何か、それも自分が思いつきもしないような、それでいて自分の身近にある何かに自分の人生は動かされているのかもしれない」という様な気分が、自分の視野を広げ、例えば『炭水化物が人類を滅ぼす』の様な本を手に取らせるような感性を作り上げたのかもしれない。ふとそんなことを思ったりもする。

 

文Bの主語には色々と代入できるものがある。そして代入できるものが少なくないことに驚かされる。

酒、タバコ、ギャンブルなどは序の口で、磁気ネックレス、エアコン、コンビニ、ネット・ショッピング、最近ではスマートフォン(の中のアプリ)などもある。

 

これらの例はすべて、人間の方がそれを使い始めたら、少しずつ少しずつ、それなしではやっていけないようなある種の「依存状態」へ導かれるという点で共通している。

 

ちょっと思いつきにくい他の例をひとつ挙げよう。キーボードの配列である。

キーボードの配列は、現在はQWERTY配列が一般的で、親指シフトなども存在するが、依然として利用者は少数派に留まっている。

 

ではQWERTY配列は他のあり得る様々なキーボード配列に比べて優れているかというとそんなことはなく、むしろ先ほどの親指シフトなどは「QWERTY配列は入力の効率が悪い」ということで生まれたものだ。

 

別にそれが効率的というわけではないが、普及しきって、それが一般的になると、もはやそれが変更されるということが起きにくい。

 

「効率的」という表現の代わりに「よい」という言葉を代入してみる。するとそれは先ほどの文Bの主語の候補一覧の話になる。

 

この記事では主語を変えるということによって、意外な構造が見えてくるということを示したかったということもあるのだが、同時にある本を紹介したいということもあった。

 

ブライアン・アーサー『収穫逓増と経路依存の経済学』である。 

収益逓増と経路依存―複雑系の経済学

収益逓増と経路依存―複雑系の経済学

 

 先ほどのキーボードの例などは典型だが、「ロックイン(lock-in)」という概念がある。この本の著者、ブライアン・アーサーによるもので、「ある特定の技術や製品が、特にコストや機能の面で優位にあるわけではなくても、収穫逓増の恩恵によって他の技術や製品を押し退けて競争上の優位に立つこと」(参考:Lock-in (decision-making) - Wikipedia, the free encyclopedia の定義の、筆者による和訳という様に定義される。

 

ちなみにアーサーの本は最近ではこんな本も出ている。

テクノロジーとイノベーション―― 進化/生成の理論

テクノロジーとイノベーション―― 進化/生成の理論

 

 

では有名な例として『収穫逓増と経路依存の経済学』ではVHSとBetaの規格競争も挙げられている。VHSとBetaではコスト面、機能面でほとんど差はなく、むしろBetaの方が機能は上ではないかという状況だったが、ある時期にVHSが偶然Betaよりも売り上げを伸ばす状況が続いたことで、VHSの方が売れそうだと判断したソフト会社がVHS規格のソフトをより多く売るようになり、それが更なるVHSの優勢を生み…という連鎖が起き、遂にはVHSの規格が一般的になる(「VHSにロックインされる」)。

 

そうしてアーサーは自動車が道路のどちら側を走るか、という問題を取り上げる。日本では左側通行が一般的だが、世界では右側通行の国が多い。

もちろん右側通行と左側通行のどちらか一方が他方より優れているなんてことはなく、運転のしやすさはどちらも同じだ。

 

ここで片側通行でどちらを走るかが決まっていない道路を車が走るという状況を考える。初めのうちは車がぶつかりそうになって互いによける…という状況が生まれるが、車の台数が増えてくると状況は変わり、自然とどちらか一方を同じ方向に走るようになる。これで右か左、どちらかの片側通行にロックインというわけである。

 

大学4年生の頃、卒論を書くために色々な本を読みあさっていた中で初めてこの本を読んだ時、このアーサーの説明ぶりにかなりワクワクさせられたのを今でもはっきり覚えている。

一見互いに異なっているように見えるもの同士の間に構造的な類似点を見つけ、共通するロジックでそれを説明する。(「同型性」と言ったりする)そういう考え方に少しずつ染まっていくきっかけはおそらくこの本だった。

 

 

冒頭の主語の反転による「気付き」には、このような「ロックイン」の例の発見だけでなく、他にも色々な種類の気付きがあるだろう。今回は特に「ロックイン」に焦点を当ててみた。