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一番多くの情報を持っているのは人間でないとしたら

「情報化社会」と言われ始めてからもうけっこう年月が経ち、人間は毎日膨大な量の情報を扱っているから、いきおい「地球上で最も多くの情報を抱えているのは我々高等生物、人間だ」と考えたくなる気持ちもわからないではないが、実際は一番多くの情報を抱えているのは「環境(environment)」或いは「宇宙(space)」なんじゃないかとふと思った。今回はそんな話である。

 

「環境」という言葉は通常、「地球における環境」という意味で用いられるが、もちろん火星には火星の環境があり、銀河には銀河の環境があるわけで、この記事では生命体の単位から見て「外部」(external)と呼べるもの、その極限としての「宇宙全体(whole universe)」或いは「時空間(time and space)」も指しうるものと考える。

 

もちろんこれは「情報(information)」というのをどう定義するかということと深く関わる問題だから、まずはそこのところをどう考えているのかということをはっきりさせておかなくちゃならない。

 

「情報」というのは、もちろん「処理されるもの」でなければならない。「処理」と言っても人間が頭で考える(神経細胞のネットワークを用いた並列分散によるシグナル伝達)という意味での処理だけではなくて、コンピュータの集積回路(ICチップ)が行う演算や、タンパク質の機能発現のためのフォールディング、また物質の化学反応や伝達などもそれぞれがそれぞれなりに「情報を処理している」と捉えることができるから、処理する主体は人間だけではない。

 

そしてこの「情報処理の主体」の中には「環境」というのも含めることができて、結局は個別に色々情報処理をやっている主体をまるごと全部抱え込んだ「環境さん」が一番多くの情報処理をしてることになりはしないかいとふと思ったよということだ。

 

情報の基本は「I→P→O」、つまり外部からの何らかの入力(I: Input)がまずあって、それが何らかの手順でもって処理(P: Processing)され、そして何らかの形で出力(O: Output)される。上に挙げた情報処理の例はすべて、この記号化で説明がつく。ただ一つ、「環境」という例外を除いては。

 

環境が情報処理の主体であるとした場合、この図式化はそのままでは当てはまらない。環境に外部がないからだ。では環境はやっぱり情報処理の主体ではないじゃんということになってしまうかというとそうでもなくて、環境は確かに入力を行っている。「環境の内部からの入力」という形で。環境だけは「一番外側の主体」だから、その内部の各主体にとっては「外部」であったものが「内部」に置き換わる。環境は環境の中から入力を受ける。そして処理を行い、環境の内部に出力する。

 

その様子はまるで回想だけで生きている人間のようだ。或いは新しい経験や知識を得ることをやめ、過去の記憶だけで生きている人間のようだ。

 

…と書いておきながら、「では環境は新しい情報を生まないか」というとそんなことはない。最も多くの新しい情報を生み出しているのが、他でもない「環境」なのだ。

 

最近はビッグデータ(bigdata)」という言葉が使われる。

では「ザ・ビゲストデータ(the biggest data)」は?といえば、それは「環境」(の持ち物)だということだ。

 

今、人間が「情報処理」とか「データ解析」とかと言って日常的に扱っているデータは、人間なり機械なりがセンス(感知)可能(これを以下では「センシブル(sensible)」ということにする)な範囲の情報で、それはこの世に存在しているすべての情報全体、情報の全体集合からすればほんの一部に過ぎない。「センサー」がなければ、人間も機械も情報に触れることは原理的に不可能だ。「入り口」がないものは入って来ようがない。

 

 

すべての情報(←持ち主は「環境」)>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>生命体によってセンシブルな情報(←その一部の持ち主は「生命体」)

 

 ここでちょっとまだ今の自分のレベルでは理解が足りていなくてはっきりしていないことがある。それは「すべての情報」というのは、「環境そのもの」かその「持ち物」のいったいどちらか、ということだ。ここがイマイチすっきりしない。人間の場合で考えてみたのだけれど、人間が例えば病院などで色んな機器でもってデータをとられている時、そのデータは人間の「持ち物」(「生産物」或いは「生みの親」?)なのかそれとも「その人間そのものを何らかの形式で置き換えたもの(ある種の「代役」)」なのかということで混乱してしまった。

 

ちょっと話が逸れるようで恐縮ではあるが、「人間」(或いはここでは「生命」と言った方がいいかもしれない)はどのように捉えられるものだろうか。それは遺伝暗号がいくつかの分子(主に水分とタンパク質)の組み合わせという形式で表現された存在で、その本質は遺伝暗号の側にあり、表現されるときの形式は現行のものでなくてもかまわないのか、それとも現行の形式を用いるために、現行の4種類の塩基の組み合わせで情報がコードされるDNA型の遺伝暗号を獲得するに至ったという様に考えるべきなのか。また後者は別の言い方をするなら、表現形式と表現自体は相互に影響し合って、その混成物たる人間を作り出すに至った、という様に考えるべきなのか、とも言える。

 

人間がいろいろ考えたり、想像したり、思い出したり、混乱したりなどとやっているのはすべて、情報全体のうちの、「センシブルな情報」という部分集合の中の情報についての話だ。

 

「最も多くの情報を持ち、かつそれを最も効果的に用いる技術を持つものが生き残る」というのがなんだか通説というか、成功の秘訣、人生の中心的な教訓のように言われている。これはよく「進化とか適者生存というのはそういう誤解をされてしまっている」という形で知識人たちが訂正にかかるときに紹介される表現のひとつと言えるが、ここではそこではなく、もっと別のところに注目したいのだ。

 

つまり、「生き残る」というのはそもそも「環境の内側」での話であって、「環境自身」は常に生き残り続けているということだ。当然と言えば当然のことで、環境についてはもはや「生き残る」という言葉すら使われないのが普通なくらいだ。まあ考えてみれば環境がずっと「生き残って」いないとその内側にいる色々な生命体は生き残りようがない。笑 

どんなに粋がったってなあ、地球が滅べばみんなおしめえよ、という話だ。

 

 

するとどんなことが言えるか、先ほどの通説(?)は案外正しいんじゃないかという気がしてくるということだ。少なくともこの最も多くの情報を抱え、それを最も効果的に処理し続けているのが、他でもない環境その人である、というように考えるならば。

 

1907年の冬、センチュリー銀行の口座から現在の貨幣価値にして7000万ドルもの大金を何の痕跡を残さずに奪い去り、なおかつその後20年に渡って世界中の警察や一般人から一度として目撃情報があがってこなかった人物こそ、他でもないワシリー・イヴァンコフその人である、みたいなことである。……いや、これはただの手遊びだ。自分のインプロビゼーションを試したのだ。

 

ここで「環境はすべての情報を持っている」というところについて、ではそれは「環境は全知全能である」(ある意味で「環境とは神そのものである」)ということとイコールかどうかということを考える。物理化学系の範囲で考えれば、イコールと言えそうだ。実際、環境の内側で起こるすべての現象は、環境の側を基準にしてみれば「実行可能(feasible)」なものだと言えるからだ。人間の側からは卵焼きを作ることは実行可能で、竜巻を自由自在に起こすことは実行可能ではないが、そのいずれも環境の側からすれば実行可能だ。それらを実行する主体の単位は常に環境というわけではなくて、むしろそれより下のレベルの単位、生命体や人工物、有機物・無機物などが担うことが多いだろうけれども。

 

では環境は「知性(intelligence)」を備えているか、言い換えると、通常は環境の内部に「知性」を持った主体として「生命体」が存在しているという風に捉えられるが、情報処理を行えるものを「知性の持ち主」と考える立場をとるならば、「環境」は通常とはその用法や意味内容が異なるとはいえ、何らかの意味での「知性」をもっていることになりはしないか。

 

もしそうなら、環境の内部で人間が生きるというのはどういうことを意味することになるだろうか。自分よりも明らかに高次と断言できる知性体の一部として存在している人間が、人間として生きるということはどういう意味をもつだろうか。「人間として生きる」とさらっと書いたけれど、これは「生命体の中で自由意志をもつ存在だ」とか「権利や義務を抱え、よりよく生きることを希求し続ける存在だ」というようなことの一切合切を含む。

 

高次の単位の一部として、高次の単位とある意味で同じカテゴリの振る舞いを見せる、とそんな風に書くと、まるで人間を構成する細胞やタンパク質の高分子と人間との関係を表すもの、或いは細胞とタンパク質の関係を表すものというように捉えることができるが、この関係が人間と環境の間にも成立するとしたらどうなるか。

 

このテーマはまだ掘り起こすのに時間がかかりそうだ。