さいころを1回しか振れないとしたら、私たちはどうやって1の目が出る確率が6分の1であると言えるのだろうか

最長のタイトル。笑

 

先日の小銭の問題に触発されたのだろう、確率の問題について抽象的なところに関心が向くことが増えて、近頃漠然と考えていることを書いてみようと思う。

 

ちょっと前の自分のツイートから始めようと思う。

 

さいころの各目の出る確率が同様に確からしく、その確率は6分の1であるということは、さいころを1回〜6回振っただけでは確認できないんじゃないの?、という問題。

 

大数の法則(the law of large numbers)」というのがある。かなり大きな回数繰り返せば、確率分布が正確に出る、というもので、さいころだったら10回や20回よりも100回、100回よりも1000回の方が、さいころの目の確率分布を正確に再現することができる。先日塾のある生徒から聞いたのだが、確率の単元を教わったとき、実際に硬貨を100回投げてもらって、大数の法則を経験的に確認するということをやったそうだ。どこの学校でもやっているかどうかはわからないが。

 

問題は、「回数の少ない現象、予め起きる回数が限られているような現象ではその現象の正確な確率分布をどうやって正確に推定すればいいのか」ということ。もしさいころを8回しか振ることができず、結果が6分の1ずつになっていない(実際8回だとどうやったって6分の1ずつにはならない。)としたら、そのとき私たちはさいころの確率分布をどうやって計算すればいいんだろう。仮に2の目が出る確率が4分の1だったとしたら、その値を採用するしかないのか。

 

「そんなさいころの問題なんてどうだっていいじゃん。」というなかれ。実はけっこうこれが人間の人生についての根深い問題なんじゃないかという気分が、自分が今タイピングを続けている一番の理由なのだろうと思う。

 

1回しかないことの例として何が思い浮かぶだろう。地球が誕生すること、宇宙がなくなること、絵を描くときにある色を作ること…。それらと同じで「ある個人の人生」もある。

 

もしある個人Aの人生が90%の確率でうまくいくものであると何らかの方法でわかったとしても、その当人はそのことを知らず、自分では「自分の人生は失敗だった」と思っていたとしたらどうだろう。その人はどうやってそれが誤った認識であることを確認すればよいのだろうか。もし「うまくいく」という表現に成功哲学的なものを感じて嫌悪感を抱いたとしたら、「よりよいものになる」と捉えたらどうだろうか。「何よりも大切なのは、単に生きることではなく、よく生きることだ。」(プラトン『クリトン』の一節。処刑を目前に控え、脱走してはどうかと提案するクリトンに対してソクラテスが語った言葉)という意味で、それは倫理学の問題になる。

 

例えば他者との関わりがある。色々な他者と関わる中で、私たちは多かれ少なかれ自分とよく似た他者というのを見つけるものだし、そういう人たちと自分を比べて自分はうまくいっているかどうかを判断したりすることもある。例えばそういう他者が10人いたとして、彼らはお互いによく似た行動パターンを示しており、そのうち7人がうまくいっているとしたら、「ふーん、70%か。自分もまあうまくいくだろう。」と楽観的になれるかもしれない。或いはそれが3人だったら、悲観的になるかもしれない。

 

ただここで重要なことは、悲観的になるとしても、自分しか見えていない状態で悲観的になるのと、他者のことも含めて観察し、その結果として悲観的になるのとでは意味が違うということだろう。確率分布がわかっていて悲観的になるほうが、それがわからないままで悲観的になるよりはだいぶマシだ。対処の仕方も両者では変わってくるだろう。

 

他者というのは何も生きている人間だけに限ったことではなくて、死んだ他者であっても、私たちは書物やその人物を知る人の証言などを通して、他者について知るきっかけがある。それは同時代だけでなく、異なる時代の他者でもそうだし、同じ地域や国家に属する他者だけでなく、異なる地域や国家に属する他者でも、言葉の障壁を超えることさえできれば、私たちは様々な時代の様々な「自分とよく似た他者たち」から学ぶきっかけを得る。

 

この発想を逆にさいころの例に対応させるとしたら、「同じ人が繰り返しさいころを振ることができないとしても、なるべく多くの人間に1回ずつさいころを振ってもらえば、確率分布は計算できる」という風になる。短く言えば逐次的(sequential)でなく、同時並行的(concurrent)に」、ということになるだろうか。

 

実際、確率(probability)の定義は

①ある事象が起きる頻度(frequency)として捉える場合

②ある集合の中で条件に合うものがいくつあるかという割合(percentage)として捉える場合

の2つがある。これは確率の基本をなす立場だ。 

 

教訓的に表現するならば「繰り返せないなら周りをよく見ろ」といったところか。

 

「同じ過ちを繰り返すな」ということがよく言われる。「再発防止に努めて参ります」「今後このようなことが二度とないように…」などもこれに類する表現と言えるかもしれない。ん、現在の言語解析のレベルではこれらは同じ意味内容だと判断できるんだろうか?…まあいいや。笑

 

ではもし本当に同じ過ちを繰り返さなかったとしたら、その過ちはどれほどの確率で起きる現象なのかを確かめたい場合、私たちは自分の知りうる範囲の他の誰かが同じ過ちを犯すのを待つしかないということになるんだろうか。

 

或いは1回しか起きなかったことでも、その現象を複数の小さな現象の集合に分解して、各々の確率を明らかにし、それらを足し合わせたり掛けたりして元の現象の確率を計算すればいいのだろうか。

 

…いや、もしそれで計算できたとしても、それが「正解」かどうかは、やっぱり同じ現象が「後で起きるか」「他で起きるか」しないと確認しようがない。

 

周りを見ても同じ例が見つからず、今後同じことが起きるとも思えない場合、起きてしまったその現象について、どんな風に評価するといいのか。「評価」といっても色々なやり方があるだろうけれども、どの評価方法にしても「似たようなものと比べること」を前提にしている点では同じだ。ではその「似たようなこと」が見当たらないとしたら?

 

さいころを本当に1回しか振ることができないとしたら、おそらく自分がとる対策は、「どの目が出ても対応できるように万全を期す」くらいだろう。それが「備えあれば憂いなし」ということわざに対する自分なりに考えて導き出した説明でもある。