プリウスが横を走り抜けていったその時
アルバイトの帰り道、歩きなれた道をいつもと同じように歩いていると、白のプリウスが僕の横を走り抜けていった。
プリウスは、もう世に登場してからずいぶん経つし、プリウスより先進的な車も今では世に出ている。この前の週刊少年ジャンプでは、こち亀でFCVの話があった。
ただそれでも、自分の横をプリウスが通った時、その静かな走行音に未来的なものを感じた。反対車線を普通の車が走る。聞き慣れたエンジン音が聞こえる。そんな中でかき消されてしまうようなプリウスの静かな走行音は、かき消されてしまいそうであるからこそ、かえって先進的である様に思えた。
そこでふと振り返ってみると、近頃そういう「未来」を感じさせるものに日常で直に出会った記憶がないことに気がついた。毎日目にするグノシーの記事、Newsifyでチェックして読むサイエンス系統の論文、TwitterやFacebookでリンクが貼られている動画、そういうものを通して未来を感じさせるものに出会うことはあるが、そういうネットの中でない、いやもっと言うとメディアを通してない形で、直に自分が経験する形で「新しさ」に遭遇することがないように思えた。
どうしてだろう。
実際にそういう「新しいもの」が登場していないのか。
それらを見つけ出すための自分の感性が鈍っているのか。
その両方か。或いはいずれでもない何か別の理由があるのだろうか。
「新しいものは何が違うのか」と言えば、その要素の組み合わせが従来と異なるのだ、というのは色々な人が言っている。
りんごとヨーグルトならばすでに存在する組み合わせだが、リンゴと醤油ラーメンならどうだろう。隠し味にりんごの果汁をスプーン1杯分入れると、スープの味にメリハリが出る、なんてことがあるかもしれない。
プリウスが通り抜けていったときに感じた「新しさ」は、そうした「要素の組み合わせの妙」による新しさとは異なる、いわば「新しい新しさ」だった様に思える。
それは通り抜けていった後にプリウスを追いかけるようにして吹き過ぎていった一陣の風のせいだったのだろうか。
あの「新しさ」の正体が気になる。