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ネットの色んな問題は突き詰めれば「ひとつの画面にひとり」が原因なんじゃない?

 タイトルが結論です。笑

 

ネット上で政治家や企業のトップ、アイドル、俳優・女優、スポーツ選手など色々な人が持ち上げられ、非難され、バッシングを受け、正論を振りかざされます。炎上も次々に起こります。

そういう問題を見ていてたまに思うことがあります。

 

ネットを使うとき、私たちは何らかのパソコンやスマホタブレットなど、なんらかの端末を使います。そこには画面がひとつあって、その画面を見ている人の数は一人です。

 

これが色んな問題の根っこにある、「大きな問題」なんじゃないだろうか、と。

 

ネット上の色々な問題について出される処方箋はたいていはマナー、エチケットを中心とした「心」に関する対処法であるような印象を受けますが、ネットの問題を「各人の心の問題」と捉えてしまうと解決が難しい。

 

これは広く捉えるならば問題を引き起こすような人々を「あちら側」、問題を起こさない私たちは「こちら側」に選り分け、あちら側の人たちとは関わらないようにしましょうね、式の捉え方で、これは電車の中で大きな声でしゃべる人たち、ホームレス、歩きながらぶつぶつ何か言っている人にどう向き合うかということと同じ分類の捉え方のように思えます。鬼ごっこで鬼はあちら側、逃げる人たちはこちら側というのと本質は同じではないか、と。

この問題はまた別で記事を書こうと思っているのですが、僕はこういう問題について前々からこんな風に考えています。

 

 こちら側とあちら側の境界線は恣意的なものにすぎず、何でもないようなあの人やこの人、そして「自分」までもが、時と状況によっては簡単に問題の発生や拡大に加担する側になりうる、と。犯罪者は特別な人間などではなく、ただの普通の人間が、特定の状況に置かれた結果として犯罪を引き起こしたにすぎず、彼らと自分は別だなどと言い切れる根拠など本当はない、と。自分の中にも、時と状況によっては犯罪を引き起こすような「何か」が確かに存在していて、それをうまく制御できなければ、自分も案外簡単に犯罪を実行してしまうのではないか、と。

 

スティーブン・ピンカーのこの本などがこの意見の背景にあります。私たち人間の暴力性はどこに由来するものなのだろうか、ということについての本です。

 

The Better Angels of Our Nature

The Better Angels of Our Nature

 

 

 

それよりも問題なのは私たちが画面に向かって何かを書き込むとき、私たちは自然と、ごく当然のように「一人」になってしまっていることの方ではないか、と思うのです。

 

一人で何かを書き込むとき、私たちは自分の頭の中にある考え・意見について、誰かにアドバイスや修正、問題点の指摘などを事前に受けることはありません。ぶっつけ本番で、一人でどんどん書き込んでいく。たぶんそこが一番の問題なのではないか。

 

考えを表現するときに、少なくとも一度はその文章を見直したり、頼りにしている誰かがこれを読んだらどんな意見を返してくるか考えてみるなど、いくつかの工夫が浮かびます。その辺を変えていけたらいいんじゃないでしょうか。

 

参考リンク:


右を見ても、左を見ても「正論バカ」が日本を滅ぼす なんでも「シロ」「クロ」つけないと、納得できない人が急増中! | 賢者の知恵 | 現代ビジネス [講談社]