歴史を学ぶことは可能か

歴史を教えてくれるのは歴史家だろうか。いや、そもそも歴史は誰かに教わるものなんだろうか。

 

世間で流通しているいわゆる「戦国時代」なんかは、もはや歴史というよりも一つのドラマにすぎないような印象を覚える。色々な戦国武将の内面の葛藤や戦略について理解することがすなわち戦国時代を理解することである、というような図式。

 

戦国時代ほどわかりやすくはないかもしれないが、ヨーロッパの歴史についてもそういうところがなくはない。マリー・アントワネット、ブーリン家、ヒトラーフランス革命ローマ帝国・・・。それらが人々の心に迫ってくるときには、劇的なドラマの体裁をしている。

 

しかし歴史を理解するということは、そこに生きていた人々、権力者や王族、諸侯などの内面を理解することとはイコールではない。彼らがなぜそう思うことになったのか、その背景を明らかにすることも必要だ。さらにはある背景があったときに、そこに置かれた人間はなぜある反応をするのか、そういうレベルのことまで考えるとなれば、それはいわゆる「歴史学」ということの範疇をはみ出している。神経科学や生物学の領域とも重なってくる。

 

歴史を教えてくれるのは、歴史家ではないかもしれない。生物について雄弁に語る生物学者が、もしかしたらすでにある種の形式で歴史というものについて歴史家以上に雄弁に語っているということがあるのではないか。そんな気がするのだ。

 

「歴史」という名前では呼ばれていないものが、歴史について最も雄弁に語っているということがあるのかもしれない。私たちがそれを捉えるときに、従来の眼鏡でそれを見ていては、まさかそれが歴史について語っていようとは夢にも思わないような、そういうものが、歴史を示しているということがあるのではないか。

 

「歴史」というものを明らかにするために、今はまだ「歴史それ自体」を厳密に扱える段階ではなくて、その土台を固めるための時期なのかもしれない。生命科学や神経科学、物理学、化学の研究が進歩し、今「社会科学」と呼ばれているものが何らかの意味で塗り替えられて、「人間とは何か」ということがわかったら、その前提で考えられる「歴史」というものは、今語られるような歴史とは全く異なったものになるんじゃないか、とそんな気がする。

 

これまで語られていた歴史を塗り替えるような新たな歴史像を提示する著作がたまに登場する。それは自然環境や資源の分布、或いは経済力を主たる要因として説を展開する。しかしやはりそういうものでもまだ、「歴史」ということについて語るための暗黙の前提、「鋳型」とでもいうべきものに依って作られている。

 

全く新しい歴史像というものを示すことはできるのだろうか。それは「歴史像」とすら呼べるかどうかすらも躊躇われるような、「歴史とはそもそも何なのだろうか」と人々が再考せずにはいられないような、そういう歴史像。