確率をめぐる人間とコンピュータの関係

確率(probability)について、近頃漠然と感じることがある。

 

個人の頭の中では処理できないくらい、多くの情報が関わって決定されるような現象は、たとえそれが原理的には確定的(deterministic)なものであろうとも、その人にとっては「運」とか「確率」の問題、確率的(stochastic)な現象に変わってしまうんだな、と。

 

2、3個くらいの要素を考えていれば捉えることのできる現象は、その人にとって「制御下にある(under control)」という感じがするけれども、100とか200の要因が関わってくるとなると、もはやお手上げ、その人の制御から外れて、ここから先は「運(luck)」というようなことに変わっていく。

 

コンピュータが発達した。だから100とか200くらいの変数であっても、コンピュータにとっては「確定的」な現象であるということはある。しかしそれは人間の側からすれば、処理のキャパシティーを超えてしまった時点で「確定的ではない」ということになりうる。

 

人工知能の研究では、人間の側には理解できなくても、人工知能の出した結果が合理的であるということがありうる。人工知能だけではない、たとえばアリの集団(コロニー)が組み合わせ最適化の問題を解き、粘菌が人間の作った鉄道ネットワークと同じようなネットワークを自律分散処理によって作り上げ、蜂が絶妙な幾何学的バランスを保ってハニカム構造の巣を作り上げる。

 

こういう例は、自然界を見ているといろいろ見つかる。人間だけが賢いとは限らず、今まで生き残っている生物は、みんな何かしらの工夫をしたから今日まで生き残れたという風に考えるべきなのかもしれない。その工夫のすべてを、人間が理解できていると考えるのは、それこそ思い上がりなんだろうと思う。

 

人間以外の生き物たちが、数学的に難しい問題をそれぞれの仕方(解法?)でもって解いてみせるとき、人間は「どうやってそうしたのか」を理解していなかったりするのだ。もちろん「彼ら」の側も「どうやってそうしたのか」という言語による問いかけに、少なくとも人間のそれと同じような言語をもって返してくることはない。

 

そうした人工知能、アリのコロニー、粘菌、蜂の振る舞いの賢さは、「あくまでも人間が、現象の背後に潜む原理を理解することによって、学問は進歩する」という立場からすると、とても受け入れがたいものだろう。だから彼らの解法は「人間がそれを理解している訳ではないから」という理由で、実際に用いられるのは却下されたりもする。そうかといって、プラグマティックに、「解決するならそれでいいじゃん」と片付けてしまうのも考えものだ。 日常の計算をすべて電卓でやっていたら、自分の歳がいくつかわからなくなるかもしれない。

 

人間には処理しきれないほど多くの要因が関わる問題、もう少し厳密にいえば、多くの要因をうまくまとめて(還元して)、いくつかの要因にしぼって考えるということができないタイプの問題では、人工知能にはあっさり解けるかもしれないが、その解答の信憑性や実効性をめぐって、人間と人工知能との間である種の「摩擦」「緊張」が生まれる。

 

ほんとうは確率的ではないけれども、人間にとっては、処理能力のキャパシティのために確率的な問題になってしまう、そんな問題をいかにうまく確定的な問題として捉えることができるようになるか。それは人工知能やアリ、蜂、粘菌など、「彼ら」の側の進歩よりもむしろ、人間の側の知性の進歩にかかっているのだろう。