辞書から見えてくる社会

 

 辞書には、その時の社会が、色々なことをどんな風に捉えているのかが映し出されている。だから、辞書はある意味で、社会を映す鏡であると捉えることができる。

 

数学的に言うならば「ある種の写像(mapping)の集合体が辞書である」ということになる。個人的には、「辞書というのは、ある時期の写像の記憶装置である」という風に認識している。

 

初版の辞書は、初版が出たときの社会の語彙ネットワークの写像を保存し、それが第二版に変わったならば、そこには社会の新たな写像が記録されていて、また写像が変化したということを、メタメッセージとして示すことにもなっている、というように。

 

このことについて考えることになった直接のきっかけは、電車の中で、『粘菌 単細胞生物が人類を救う』を読んでいたことだ。

 

粘菌 偉大なる単細胞が人類を救う (文春新書 984)

粘菌 偉大なる単細胞が人類を救う (文春新書 984)

 

 そこでこんな文章を見つけた。少し引用する。「転じて」という表現に特に注目してほしい。

「JRの鉄道網はきっと歪んでいるにちがいない」。当初、私はそう予想しました。政治家の利益誘導は日常的だし、そもそも政治家は選挙区の利益代表でもあるわけですから、程度次第ではありますが自然なことです。だから、歪んでいるはずだと。

 ところが、あにはからんや、粘菌ほどに多機能的であるとは。「粘菌程度に良くできている」とは、「単細胞程度に良い」つまり「おバカ者程度に良い」とも聞こえるわけですが、これは少々奇妙に響きます。奇妙でなくする一番の方法は、単細胞すなわち粘菌をこれまでのように貶めるのではなく、もっと格上げすることです。単細胞の地位を高めることによって、「単細胞」といえば「単純で有効な戦略でうまくいくこと」という意味に使えばよいのです。なんといったって、これは事実ですから!新版の『広辞苑』が出る暁には、ぜひとも見直しをお願いしたいものです。

 ちなみに第4版『広辞苑』では、①単一の細胞。または、単一の細胞から成る生物。(中略)②転じて、考えの単純な人」、とあります。「考えの単純な」の意味するところは、「考えが浅い」と思われますが、字面だけをみると「単純さ」は良しとも悪しともいってはいません。

(同書102、103ページより)

 

ある社会で、ある言葉が本来の意味から転じて、別の意味*1(上の例では意味の②の方)で使われるようになるとき、その社会で暮らす人々が、本来その言葉が指すもの(上の例では意味の①の方)をどう捉えているかということが「もと」になる。人々が単細胞生物「考えが単純な生き物だ」というように捉えていなければ、「転じて」の方の意味が生まれることはない。

 

最近は細菌や粘菌(が利用しているアルゴリズム)に関心が湧いてきたこともあって、私の場合は、粘菌についての見方は著者の中垣さんのそれに割と近い様に思う。これを、私の周りにいる人たち、例えば塾の生徒や同僚、彼女、家族、美容院の美容師さんなどなどに話すと、その人たちの頭の中の「単細胞」の意味も変わるかもしれない。当然それは、単細胞生物に対するその人たちの捉え方の変化を伴っているだろう。

 

これは形式的に書くと次の様になる。

語X:単細胞

 原義X:単一の生物

 転義X:考えの単純な人

において、転義の方を書き換え、例えば

 転義X’:単純な方法で複雑な問題を解く人

という風にすると、原義Xについての認識もそれにつられて書き換わる。

 

 辞書には色々な言葉について、その原義だけではなく、転義も掲載されている。原義もそれはそれで面白い*2が、転義の方を見てみると、自分たちが原義の方をどんな風に捉えているのかが、逆にわかるようなところがある。遡って考えてみると、それはクッキリと見えてくる。

 

今のところ、社会では「単細胞」という語は「考えの単純な」とか「考えの浅い」とか「バカ」というような語と対応関係を作って使われている。その対応関係は、必ずしも固定的ではなく、社会の中で暮らす人々の大多数の認識が変化することによって、どんどん変わっていく。こと言葉に関して、それを写像として捉えた場合にも、それは流動的なものだと言える。例えば「写メ」という言葉は、もともとは「写真付きメール」という意味で生まれた言葉だから、メールに写真を貼付して送るときに使われていたが、最近は「写メ撮らせて」など、「携帯で撮る写真」というほどの意味で使われることが、むしろ一般的になりつつある。これは、人々の「写メ」についての認識の変化が、「写メ」という言葉をめぐる対応関係を変化させたことを示す。

 

言葉の用法の変化を写像(あるものと別のあるものとの対応関係)の変化」として捉えるというのは、面白いものがある。言葉をめぐる写像自体の作られ方にはどんなパターンがあるか、またそれが流動的に変化していくというとき、変化のしかたには何らかのパターンがあるのかどうか。

 

久しぶりに時間を気にせず辞書を熟読したくなった。

 

*1:「転義」という

*2:ここで「面白い」というのはおおよそ次のような意味である。原義というのは、そもそも人々が、ある範囲の対象物を単細胞生物として、世界から切り取って認識しているということを示すものだ。将来、サルが辞書を作るかどうかはわからないが、もし作ったとしたら、単細胞生物ー多細胞生物」という分け方をする保証はない。「単細胞生物」というのは、「人間たちはそれをそのように認識している」ということを示すメタメッセージを伴っている。そこのところが「原義」ということについて面白いと思うのだ。