理屈のような物語と、物語のような理屈
漠然と考えていたことについてのツイートから話を始めようと思う。
アナロジーということについて、最近ふと気付いたこと。日常的なことをアナロジーとして科学の事柄を説明するのは抵抗ないけど、科学的な知見をアナロジーとして日常のことを説明するのには抵抗感を覚える、ということ。
— ふじいひろゆき (@HiroyukiF12211) September 29, 2014
ここ1年以上の間、科学系統の本を読むことが増えた。
科学的であることにこだわり、慎重な書き方を徹底するタイプの人(やはりこういう人に対して「誠実」という言葉を使いたいと思う)、
わかりやすさのために厳密さには目をつむることにし、それでもあくまで、「自分は科学者なのだ」ということを確かめるような書き方をするタイプの人。
どうしてかはまだハッキリしないのだけど、「科学的なこと」をもとに「非科学的なこと」を説明しようとするタイプのアナロジーには違和感と不信感を覚えることが多いように思う。量子力学で世界の波動を…などと言われると「うーん…」と思う。
それとは反対に、「非科学的なように思えること(或いは私たちの日常に馴染み深いこと)」を使って「科学的なこと」を説明しようとするアナロジーには、違和感や不信感を覚えることはあまりない。水素原子が酸素原子と結びついて水の分子を作るとき、水素は二股をかけて、酸素原子2個と結びつくんだよ、と言われても、別に「ちょっと待った!」と思ったりしない。
「疑似科学」「エセ科学」「トンデモ科学」など、ちゃんとした科学でないような「まがい物」を指す言葉が既に存在している。
科学的であろうとすること自体が悪いとは別段思わないのだが、科学で語れないところに強引に科学を持ち込むべきでないし、もし持ち込むのであれば、それなりに形式を整えた上で、科学にそれほどなじみのない一般大衆を相手に、ただただ雰囲気で納得させる、というレベルでない説明を用意すべきだと思う。
…というようなことは、すでに科学コミュニケーションや疑似科学に関する議論の中で出てきているポイントなので、ここではさらなる展開は控える。
それよりも、どうして自分は、理屈のような物語と、物語のような理屈とでは、後者の方を信頼しがちなのか、そこを考えたい。
「人は自分が考える物語の中でしか生きていくことはできない」ということを先日の記事で書いた。
この記事を書いた後で、デイヴィッド・チャーマーズがスピーチしているTEDの映像を見つけた。彼はそのスピーチの中で、「意識」を「自分だけが観ている映画」というように表現している。「そうそう、これだよこれ!」と思った瞬間だった。
デイヴィッド・チャーマーズ: あなたは意識をどう説明しますか? | Talk Video | TED.com
こういう意味では、私たちは誰も、物語から逃れることはできない。「私」があると思うとき、そこには「意識」という形で、私に固有の物語が展開している、という様に捉えるのであれば。
それにもかかわらず、理屈のような物語には違和感を感じてしまう自分も確かにいる。「そう感じている自分」というのも、ある意味では物語の一部と言えるかもしれないのに。
それでは一体、「理屈」とは何なんだろう。おそらくは、理屈も物語も、ある意味では同じものなんだろう。そんなことを漠然と思った。