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見えないものを見ること To See What Can't Be Seen

   小さい頃にシャーロック・ホームズ名探偵コナンに熱中した。その頃から自分の推理小説好きが始まった。

 
足を見ただけで依頼者がどこから来たかを当てるホームズに感心し、自分も同じ様に、ほんの些細なことから全体像を正確に見てとる観察眼、洞察力を得られたらと思った。
 
頭のよさ」というのを、色んな風に捉えることができるけれども、一つの見方として自分が意識しているのは、一部から全体像を正確に捉えることができること、というのがある。
手前味噌だけれど、自分のツイートから引用。

ジグソーパズルの様に、バラバラでどこがどう欠けているのか初めのうちはわからないものを、それぞれのピースを正しい位置に配置して一枚の絵を復元する。クイズや問題の「ヒント」の本質は、情報を追加することだ。全体像を見えやすくするためにピースを追加することで、回答者は正解に近づきやすくなる。それを裏返すと、だからこそより少ないピースから正解を導き出せることに高い価値があるということになると言える。
 
もっともジグソーパズルは、たとえば金閣寺の写真、たとえばイルカの泳ぐ海など、実際には完成図が予めわかっているからピースを配置しやすいけれども、現実に起こることは完成図もまた自分でイメージして作り上げなければならない必要なピースがいくつあるのかも、予めわからない。それが500ピースなのか、1000ピースなのか、それすらも自分で考えなければならない。だからジグソーパズルより遥かに難しいし、その分面白くもある。
 
ある全体像を浮かび上がらせるために、なるべく少ないピースでそれを再現したいという欲求と、ピースが少ないことによって、後から見つかったピースによって自分の考えていた全体像が覆され、それが間違いだったとわかる可能性への怖れとがぶつかる。ピースが少ないと、想像力によって構成できる全体像の数は増える。正しく考えられていなければもちろんだが、たとえ正しく考えられていたとしても、複数の全体像を構成してしまう。物書きならばそれでも構わないけれども、真実を知りたいという場合にはそうはいかない。本当の全体像は一つしかない。そこには「個人によって見える現実は様々」という主張が入り込む隙はない。
 
大学にいた頃は主に経済学を学んだ。経済の全体像を捉えるために、先人たちが見つけ出し、構成したいくつかのピースの組み合わせは「仮説」や「理論」、もう少しまとまったものだと「ミクロ経済学」「国際経済学」のように学問としての「体系」を成している。たとえばインフレ率、失業率、資本分配率、人口、移動コスト、機会費用色々な変数があって、それらは互いに関係があって、その関係を基に観察し、考察を進めれば、しかるべき方向が見えてくる
 
それは医者が脈を測り、体温を測り、眼や喉を観察し、そこから患者の身体の不調を診断することと似ているし、探偵が足跡の間隔から犯人の身長を判断するのと似ているから、経済学のテキストには医者や探偵の比喩が使われる。
 
自分はまだまだ、部分から全体を構成する力が乏しい。全体は文字通り一体全体どうなっているか、どれくらい把握できているかどころか、どれくらい把握できていないかすらわからないでいる。
 
死ぬまでに世界のどれくらいが見えるようになるのか、今見えている部分は、まだ見えていない部分とどんな関係を成しているのか、自分にとってそれがわかったときの楽しみは何物にも代えられないと思う。
 
ミッシングリンク」をうまくつなげる人になりたいなぁ。