『俺のダンディズム』を見ていて思うこと On the Drama "Ore no Dandyism (My Dandyism)"

4月からのドラマは珍しく気になるものが2、3あるから欠かさず見ている。そのうちの一つに『俺のダンディズム』がある。(ちなみに他には『ブラック・プレジデント』ともう終わってしまった『ロンググッドバイ』がある。)

 
さて主人公はファッションセンスの冴えないサラリーマン段田一郎。彼がダンディーな男になるために毎週こだわりの一品を購入し、ダンディーな男へ近づいていく。
 
そんな彼が、新しいアイテムを購入するために、趣味である切手や硬貨のコレクションを質に出すシーンがたまにある。ものすごくレアなものでも、彼は苦渋を見せながらも思い切って売ってしまう。
 
そこはドラマのストーリーの本筋とは離れたところかもしれないが、そのシーンになるとどうしても、かつて気に入って買った本をブックオフ売りにいく自分自身と重ねてしまい、色々考える。
 
 
自分にとって大事なものは決して売りに出したりせず、たとえそれでダンディーな男になれなくても構わない、そんな哲学も一つあり得る。彼(=段田)の場合はそうではないけれど。
 
世間的には、彼の「切手コレクション」が高く評価されることは少なく、わかる人の間という極めて限定された範囲の人々からのみの承認を得られるに過ぎないのに対して、「ダンディーな男」というのは、彼の職場の女性社員、そして彼が密かに気に入っている女性社員からの承認という意味で、より広く普遍的に通用する価値ということになっている。
 
どれくらいの範囲の人から承認されるか、ということを金額に換算することは難しい。たとえば彼が質屋に持ち込むコレクションの品々は、買取額50万円という価値を持つものもある。その一方で彼がダンディーなアイテムを買いに足を運ぶ店で購入した商品は10万円だったりする。金額で比べれば前者の方が高いのだが、どれくらいの範囲の人から高く評価をされるかということで見れば結果は逆転し、後者の前者に勝る。
 
ではものの価値を判定する方法は、標準的な経済学の枠組みに従って、「市場における人々の交換によって、賦存量の異なる複数の商品は交換比率を決定され、それは『値段』という形で貨幣に媒介されて表示される。それは一般に『市場価格(market price)』ないし『均衡価格equilibrium price』と呼ばれる」という様に理解しておいてよいのだろうか。別解または修正された解を考えることはできないだろうか。
 
段田一郎の質屋へのコレクション持ち込みは、特殊・局所限定的な価値の追求(X)一般的・普遍的な価値の追求(Y)に取って代わられるために必要な行為と考えることができる。
 
…いや、こんな大仰な言い方をしなくても、自分だけの満足でよかったもの(X')を、自分が大切だと考える誰かから認めてもらうこと(Y')に置き換えることと言ってもいいだろうし、わかりにくい趣味(X'')わかりやすいダンディーな男(Y'')に書き換えられるために必要なことなのだ、と言ってもいいだろう。
 
そこでの価値の評価は適切な形で進んでいるのか。質屋の主人が彼のコレクションにつける価値と、そんな主人とは全く接点のない段田一郎の職場の女性社員たちがダンディーなアイテムにつける価値とは、どうバランスをとっているのか。