ブックオフでの査定と情報処理

 近頃、この先も読みそうになさそうだと思う本はブックオフでどんどん売るようになった。そもそもどうしてこの本を買ったのだろう、その当時の自分がわからない、ということもままある。それでも、査定が終わって金額を確認するとき、こんなに安い値段しかつかないのかと思う。定価では2000円以上する本がたったの5円だったりすることもよくある。売らないなら別にそれでも構わない、あなた以外にもうちに売りに来る人間など他にいくらでもいるのだから、と言われているようで腹が立つこともある。そんなしょうもないことで腹を経てたところでなんの意味もないと思っていても、である。

「相場」という言葉がある。それは市場で何かが取引される時に、それがどれくらいの値で取引されるかを示す基準値になっている。『ドラゴン桜』の作者である三田紀房の作品『エンゼルバンク』でも、やり手だが一風変わった転職代理人である主人公が「相場」という言葉を強調するエピソードがある。自分の価値を決めるのは自分自身でなく、あくまでも相場であると。
 自分にとって高い価値をもつように思えるものでも、相場ではかなりの安値というのは、何も本に限ったことではない。そしてそんなギャップがあるからこそ、人はそれを買うということも一面の真実ではある。それが裁定(arbitrage/parity)の定義である。
 ブックオフでの査定の基準は、本の中身ではなくて本の状態がポイントだから、質の方で価値を云々ということはナンセンスかもしれない。
 裁定は、市場に参加するプレイヤーが入手できる情報によって決まる。これは情報の側からみれば、市場において情報がどの様に分布し、どの様に拡散するかに応じて裁定の場所やタイミングが決まってくるということができる。私は近頃、裁定についてプレイヤーの側でなく情報の側から考えるようになった。つまり、市場における取引は、多数のプレイヤーによる、不完全な情報の分布を所与とした集合的な情報処理の過程であり、そこでのプレイヤーと情報の関係は、ドーキンスが『利己的な遺伝子』において指摘したように、遺伝や進化における個体と遺伝子の関係と同じであると。集合的な情報処理は、クラウドソーシングの登場と発達を準備する土壌になったともいえる。
 市場において、この財はこの価格で適正か、この財はどの財と交換するのがベストであるかなど、多種多様な情報処理が終わると同時に取引は終わるというのが経済学に基づく理論的な想定である。端的にいえば、裁定機会が消滅すれば均衡状態に達して市場は安定(=状態変化が停止)するということもできる。しかし実際には、取引が終わることはない。個々の取引は、決済とともに終わるが、取引自体が終わったことはない。金融危機などで一時的に取引が滞ったりすることはあっても、やがてしびれを切らしたように取引は再開される。それは人間が経済成長を望むからであると同時に、それに付随して情報が新たに生み出され続けるからでもある。処理すべき情報がそこに残っている限りは、情報処理は終わらない。 
 ブックオフの査定基準はそうそう変わらない。しかしそれは市場で価値が査定される場合の一般的な評価法に比べてひどく粗雑な代物と言わざるを得ない。つまり情報処理として見る限り、最大限の効率性を備えた査定とはまだ言えない。
 情報処理は市場規模の拡大によっても増加し、それに伴って効率化も進む。世界規模で市場が成立し、取引に関する情報が増え、複雑化した今となっては、プレイヤーはもはや人間だけではない。株式投資においては、ウォール街にとどまらずコンピュータによるミリ秒単位のHFT(High Frequency Trade:高頻度取引)の規模が拡大している。ブラッド・ピット主演で映画化もされた小説『マネー・ボール』の作者マイケル・ルイスの新作『Flash Boys(A Wall Street Revolt)』(未邦訳)では、このHFTがテーマになっている。 
 もちろん遡って考えていけば、そのコンピュータのアルゴリズムを考えたプログラマー(ロケット・サイエンティストあるいはクウォンツ?)は人間で、そのアルゴリズムを作るための基礎となる変数評価の枠組みたる学問体系ー統計学であれ、経済学であれ、あるいは物理学であれーを作ったのも人間だから、最終的には人間が裁定を行っているのだと言えなくもない。もっとも、そこでの人間はプレイヤーというよりも、むしろ監督のような立ち位置にある。
 効率的な交換が実現するための必要条件は何かということが気になっている。