情けは人の為ならず、の逆 The Reverse of the Saying "One good turn deserves another."

「情けは人の為ならず」という言葉がある。

 
他人のためと思ってかけた情けは、巡り巡って自分のもとに返ってくる、そういう意味の言葉だけど、今日は仕事の帰り、電車に乗っていてその逆に遭遇した。
 
つまり、自分のためと思っていることが、結果的には他人のためにもなっている、そういう状況に遭遇した。
 
こういうことは経済学を学んだ人間ならばお馴染みのことかもしれない。つまりアダム・スミスが『国富論(原題:The Wealth of Nations)』で指摘したように、個人は利己的に振舞っていても、そういう個人が数多く参加する市場全体としてみれば、それは他者の経済厚生をも増加させることになると。
 
それは市場経済の強力な側面、資本主義がそう簡単には変わらない要因として語られたりもしてきた。逆に言えばNGOフェアトレードがなぜうまくいかないのか、政府の介入が好ましくないことの根拠とされてきた。
 
さて話を冒頭に戻すと、今日自分が出会ったのは、ある程度の数の人々が久我山駅のホームでで吉祥寺行きの各駅停車の電車を待っている状況だった。
 
それは待っている人たちにしてみれば、混雑した電車に長く乗っていたくない、ということがあるだろう。
 
急行電車は久我山駅に停まる前、永福町駅で各駅停車との待ち合わせをする。しかしそこで各駅停車の電車に乗り換えずに久我山まで乗車し、そこで残り駅の数が少ない各駅停車の電車が来るのを待つ方がいい、と。なんとも合理的だ。そして自分もたまにこの手を使う。
 
しかし今日の自分は各駅停車の電車に乗っている側の人間だった。すると彼ら・彼女らの振る舞いは違った意味合いを持つことになる。つまり各駅停車の電車内が永福町駅での急行電車からの乗り換え客でさらに混雑することを緩和し、その乗客たちに更なるストレスをかけるということがなくなる。
 
これは市場における個人の行動には分類されない類の行為だが、その意味するところは市場経済における個人のそれと共通するところがある。ある個人のコストカットが外部性をもち、他の個人のコストカットにつながり、コストカットが電車に乗車するという状況に参加する全員の便益を間接的に増加させる。
 
情けは人の為ならずの逆と言いうるこのての行為は、他にどんなものが考えられるか。そしてそれはどんな風に解釈できるだろう。
 
そんなことをふと思った帰途だった。