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真似と新しさ


掛け算

   近頃「真似とオリジナリティとの関係」について考えることが増えた。
人は生きている間に色々なことを学ぶ(「study」というよりは「learn」の方の意味で)けれども、「新しい何か」をどれくらい生み出せるものなのだろう。

言語学の分野ではよく知られた事実として、「ある人が話す文(sentence)は、たいていこれまでに一度も話したことがない文になっている」というものがある。

もちろんそれを単語(word)のレベルで眺めれば、新しい単語が混じっているわけではなく、これまでに話者が見たり聞いたりしたことのある単語しか、原則的には使われていない。ただそれが「文」として新しいのは、単語の「組み合わせ(combination)」がこれまでにないものだからだ。

「何かを学ぶ」という場合に、それが何かの要素を真似るということを意味するのであれば、要素のレベルで新しいものを生み出すことはほとんどできない。もちろん「要素」というのをどう定義するかという問題もある。


たとえば一つの機械式時計(A)は多くの歯車から成っている。それを時計全体から見れば歯車(a)は要素に過ぎないが、歯車をもう少し注意深く見るならば、それは単なる「車(α)」(ここでは原始的な車輪の意味で「車」という言葉を用いている)とは異なるのであって、円の周縁部を「溝(β)」で囲まれていることに気が付く。

ここで私たちは、機械式時計が
A=α1×a2×a3×…×aN
という様な式で表せるのと同様にして、歯車についても
a=α×β
という式をもって表すことができるとわかる。


では「新しさ」というのはどのレベルに生まれるのかと考えると、それは要素同士の「組み合わせ(combination)」(或いは「掛け算(multiplication)」のレベルで、ということになるだろう。この考え方はもちろん、近代科学の基本になる「要素還元主義(reductionism)」(※1)とも無縁ではない。

…と、ここまでならその辺の雑誌やビジネス書なんかにもいくらでも同じようなことが書いてある。特に新しいわけではない。

人はどれだけ新しくなれるか?


気になるのはここからで、では人間は「学習」を通してある事柄(要素)を自分の中にコピーし、再現できるようになるだけでは、新しいものは生まれないとするなら、人間はどれくらい進歩し続けられるのか、ということだ。

新しい要素が生み出されず、なおかつ実行可能(feasible)な組み合わせを全て試し終えてしまったその後には、何が残されるのか、という様に言い換えてもいい。

色んな人と出会い、それぞれの人から何かを「学んだ」としても、それはあくまで要素のコピーの蓄積にしかならない。

それが「新しさ」という性質を備えるためには、これまでになかった要素同士の掛け算を行わなければならない。もちろん実現可能な掛け算として。実現可能性の程度は、本人の個人的技能、社会的に共有されている技術水準などいくつかのファクターが制約になる。

新しい組み合わせを生み出す一番てっとり早い方法は、自分の使える要素の数を増やすことだろう。

例1:アイドル
AKB48は大人数であるからこそ、いくらでも新しいユニットを組むことが可能になる。もとのメンバーがたとえば7人だったら、組み合わせの数はかなり減ることになる。

例2:冷蔵庫の中身
冷蔵庫の中になるべく沢山の食材を入れておけば、色んな料理を作ることができる様な気がしてくる。

情報があちこちへ隈なく行き渡りやすくなった今日では、人々が使える素材の数は爆発的に増えた様に思えなくもない。

しかし新しいものがいつも数多くの要素の、数多くの組み合わせの中から厳選された組み合わせの産物として出てくるということは殆どないように思える。現実にはAKB48の様な例はあまりなく、むしろある程度限られた少数の要素の中から、うまく組み合わせを作り出した例の方が多い。iPhone(※2)などはこっちだろう。

これはサンプルの取り方の難しい面があることは確かで、人々がこれほど多くの素材を簡単に調達可能になってから、まだあまり時間が経っていない(※3)から、AKB48タイプの例が少なくなるのは仕方が無いということは間違いない。

そのことを思うと、下手に素材の数を増やして、個人の冷蔵庫の中をいっぱいにするよりは、組み合わせ方の訓練を積んだ方がよっぽどいい様な気がする。

つまり、材料がある程度揃ったら、まず初めに料理を学び、初めに揃えた素材で試せる全ての組み合わせを試したその後で、冷蔵庫の中身をさらに充実させることを検討しましょう、と。

もちろんカレーライスが食べたくて、そこに玉ねぎが入っていなければ、スーパーに買いに行くことが妥当だろうけれども。

結論は思いのほか月並みになったけど、この辺で。

【脚注】
※1 【要素還元主義と複雑系の矢印の向き(記事の中の記事)】
   機械式時計の例で考えると、ひとつの機械式時計について説明しようとするなら、その全ての要素についてもれなく説明がつけば、その組み合わせで成り立っている機械式時計という全体物についても説明がつく、という発想だが、これはまず結果(機械式時計)が知っていてそこから原因(歯車などのパーツ)を考える、ということになる。

予測(prediction)との関わりでこのことを考えると、予測とは原理的に未知の事柄について考えることを指すので、結果がわかっていない状態で、その原因と思われるものを推論し、そこから結果を説明する、という矢印の向きになる。これは上述の要素還元主義とは矢印の向きが逆になっている。


ここで複雑系(complex system)において決定論でありながら予測の原理的な困難を示す「カオス(chaos)」が、天気予報における「バタフライ効果(butterfly effect)」或いは「初期値鋭敏性(sensitibity to initial conditions)」の発見を契機としていたことを想起されたい。一羽の蝶の羽ばたきさえ理解していれば、地球の裏側の嵐という結果を予測できるだろうか。或いは予め目の前に機械式時計という成果物がなくても、歯車を十分理解していれば、まだ生まれていない機械式時計を説明することが可能だろうか。

初期値鋭敏性、或いは予測の困難さについてはこちらの動画が参考になるだろう。
[二重振り子の運動]

※2 iPhone=電話×音楽プレーヤー×インターネット端末  という掛け算の式を作ることができる。

※3 これをどの時点から考えるか、というのは、それだけで一冊の本が書けるレベルの問題だろう。グーテンベルク活版印刷が登場してからなのか、或いはそれ以前に中国で既に印刷技術は存在していたことを注意深く想起してそちらを起点に取るのか、コンピュータとインターネットが整備された20世紀末を想定するのか、他にもいくつかの節目が考えられる。