アイデンティティ

アイデンティティ(identity)」という言葉がある。

一般的には心理学の分野で訳される、「自己同一性」の意味で使われることが多いが、数学の分野では「恒等式」の意味で用いられる。

恒等式というのは、ある特定の変数にどんな値を代入しても、左辺と右辺とが同じ値をとるような関係式を意味する。

たとえばある式がxについての恒等式なら、x=1でもx=-3でもx=2/5でも、そして他のどんな値でも(つまり任意のxについて)両辺が等しくなる。

それではこれが「自己同一性」とどんな関係にあると考えられるか。

自己同一性というのはふつう、自分が他の何者でもない自分自身であることを意味する。

たとえば2014年5月16日の自分も、2014年5月17日の自分も、或いは1週間後、1ヶ月後、1年後の自分も、全て同じ自分であって、ある日だけ自分が自分以外の何かになるということはない、そういうことを表す。

つまりこれを恒等式で表すなら

自分=X

でXの方にどの日の、どんな状況の自分を当てはめてみても、それは常に左辺、つまり自分に他ならないということになる。

作家の埴谷雄高は長編小説『死霊』において、自分が自分であって、他の誰かや何かになることができないこと、つまり自己同一性から逃れられないということに苦しむ主人公の姿を描いている。彼はそれを「自同律の不快」と呼ぶ。

一方で「人は変わる」という言葉もある。

人というのは恒に等しいあるものなのか、それとも変わるものなのか。

最後にひとつ、論理学の話を。
論理学の基本原則に
同一律(Law of Identity)→a=a
矛盾律(Law of Contradiction)→aであって同時にaでない
排中律(Law of Excluded Middle)→何事もaかaでないかのいずれかであって、その中間ということはあり得ない

というものがある。

①はアイデンティティのことを指す。これは本当に極めて重要なことで、たとえば数について考えると、「1はどんなときでも1である」ということになる。

ある場合には例外的に1は3に等しい、なんてことを許してしまうと、論理学や数学は成り立たない。ということは、私たちが慣れ親しんだ、「筋道立てて考える」ということも、成り立たない。

「首尾一貫した」という意味の単語で「coherent(コヒーレント)」というのがある。

私たちはコヒーレントだろうか。