キャッチボールとモグラ叩きと、それから僕ら

 

更新が途絶えましたが、今回はかなり本気で悩んでいることを書きます。量が多いですが、最後までお付き合い頂ければと思います。ベースになっているのは、今日のバイトの帰り、彼女との電車の中での会話と、昨日の吉祥寺のスタバでの友人との会話です。

 

   近頃痛切に感じるのですが、「ある一つのこと(X)」を相手と共有するために、下準備的に多くのことを語らねばならず、なかなか結論まで到達できないということが、私たちの生活の中ではよくあります。

 

   キャッチボールをいつ終わりにするかは、人によってタイミングが様々で、10分くらいでもういいやという人もいれば1時間くらいやる、という人もいます。問題は、「いつ終わりにするか」、「どこまで続けるか」、ということを、私たちは無意識に決めているところがある、ということです。

 

   ある話をする場合に、聞いている相手が「長いよ、結論は?」とか、「まいてまいて。話長い。」とか「要するにどういうこと?話長いんだけど。」というようなことを「いつ」感じるかは、人によって異なるのです。

 

   このことをを面積で表すなら、ある点からどんどん話を広げていって、空き地くらいの広さで良しとするのか、東京ドームくらいなのか、日本くらいなのか、ロシアくらいなのか、アジアくらいなのか、地球くらいなのか…という「考えの拡がり」は人それぞれで、しかも「上限値」がある、というように言うことができるでしょう。

 

宇宙くらいの広さの問題があるとしても、そもそも人間は、地球くらいの拡がりまでしか考えようとしないようにできているとしたら、その問題は永久に解決できないのではないか。答えに行き着く前に日がくれて、遂には死んでしまうかもしれません。

 

キャッチボールをいつやめるか。2時間お互いに投げ続けなければわからないことがあっても、私たちはなんだか30分くらいで満足したように思ってしまうとしたら、2時間であるからこそ感じることのできる深みには到達できません。

 

キャッチボールの問題は、私たちが誰かと関わる時に、心の奥底まで通じ合えると感じ会える人の数、例えば「親友」が何故これほど少ないのか、という問題とも同じ型をとっている、と僕は思います。

 

終わりは、いつか。どこまでで良しとするのか。

 

私たちの脳は意識と無意識で成り立っていて、意識は10%程度、無意識が90%程度をわけ持っています。

 

何かを考えるとき、その考えること全体(=考えの分母)は「意識されていること」でしかありません。無意識の方は分母に入れない!それは根本的な設定でそうなっている。

 

そこで「他者」の存在の一つの重要な意味が現れてきます。「自分の中の無意識」を指摘してくれるのは、他でもない「他者」だからです。(ところで「他でもない他者」って面白い表現ですよね。我ながら。笑)それは僕らの中に「内面化された他者」であることもあるでしょう。

 

日本では、この内面化された他者を「世間」とか「お天道様」とか「観音様」とか「仏様」とか「天国のおじいちゃん」という風に言い表してきました。ヨーロッパでは「神」ということになるでしょう。

 

大澤真幸さんはそれを「第三者の審級」と呼ぶし、カントなら「定言命法」と関わり、ルソーなら「一般意志」になります。社会契約論は、今や私たちの生活の土台として暗黙のうちに想定されているものですが、私たちの心の中には、今でも「お天道様」はいるでしょうか。。。

 

一方こうした「内面化された他者」とは異なり、現実に僕らが関わる他者は、彼らもまた彼らなりに意識と無意識を持ち合わせ、そのうちの「意識」の部分をもって僕らを見つめ、僕らにとっての「無意識」にスポットライトを当てることになります。

 

こうしたメカニズムですべての人の無意識が、互いに他者の意識というフィルターを通して暴露され続けるというプロセスが永久に続いても、「いつまで経っても誰からも触れられることのない無意識」の部分というのが、残ります。残ってしまうでしょう。部屋の隅々まで灯りで照らし出そうとしても、「最初から最後までずぅっっっと光の当たらない場所」が存在するのです。

 

と、ここまでですでに「キャッチボール」をやめてしまう人もいるかもしれません。それは僕のこれまで投げてきた球が悪かったからかもしれません。笑

 

そしてまた、そもそも僕らの頭が意識と無意識のミックスで動いている以上、「ある無意識の行動について他者が指摘したこと(仮に「A」とします)」もまた、僕らは「意識と無意識の両方」で受け取ってしまい、それに対して意識でこうしようと思う部分(A→B)と、無意識で反応が進んでいく部分(A→C)が生まれます。すると今度は、Cの部分がまた他者に指摘されるのを待つことになり…という連鎖が続きます。

 

「モグラ叩き」ですね、これは。笑

 

更に別の観点から言えば、僕らは意識で何かをしたと思っていても、それは無意識によって事前に決定されていたのであり、意識はそれを後から追認したに過ぎないという指摘もあります。意思決定において「無意識→意識」というこの順序自体が、問題を解決から遠ざけているという構造的な問題もある。

 

さらにこの問題は、大量に入ってくる情報の取捨選択をする「フィルター」の役割を果たす、「記憶」の問題とも絡んできます。相手から言われたことの何を覚えていて、何を忘れていくのか、それを私たちは自分の意識の側で決めることができないようにできています。なんと厄介な問題であることか!(←ここまでが彼女との電車の中でのやりとりです。)

 

さてさてそうすると、僕らは「キャッチボールをいつ終えるか」ということを、「意識的に」変えることはできるでしょうか。言い換えれば、私たちは誰とでも深く通じ合えるということは可能でしょうか。

 

こういうことが達成できるように、そもそも私たちの社会の中の様々な制度は出来てないとつくづく思うのです。

 

そんな時間はねぇよ、と。

 

とはいえこの辺のことをほったらかしにしたまま、経済成長とか格差がどうとかイノベーションだ!とか威勢良く言ってても、解決しないよう気がしてならず、経済学専攻だった僕は近頃、すっかり経済学から遠ざかってしまったような気がします。笑

 

皆さんはどう考えますか?