形而の上と下

 

形而上学と哲学

語源から考える

 形而上学と哲学は、しばしば実質的に同じものとして扱われる。普段の生活の中で、両者の違いを意識することはまずないかもしれない。形而上学というのは、形而の上でものを考えることである。ところが「形而」なんて言葉は日常生活ではほとんど使わない*1ので、この訳語のもととなった英語に遡って考えることにすると次のようになる。

metaphysics(形而上学)はphysics(物理学)に対してmeta(上)の立場でものを考えることである。

 哲学 (philosophy) についても、その語源となった古典ギリシア語に遡れば、philosをsophosすること、つまり知を愛することが哲学であるといえる。その意味では、形而上学的であるが哲学的ではないというようなしかたでものを考えることも可能だ。つまり物理に対してメタな立場に立ちながら、それでいて知を愛しているわけではないというような立場*2に立ってものを考えるということが可能だ。

 私はといえば、先ほどの例とはむしろ反対に、知を愛しているといって差し支えないけれども、形而上学的 (metaphisical) に考えることができているかと言われれば必ずしもそうだとは思わない。何故かといえば、私は形而下に、つまり物理に基づいてものを考えることに十分慣れておらず、それなのに物理に対してメタな立場に立つことなどできるのだろうかと疑問に思うからだ。

哲学の起源と形而上学

 哲学の起源を辿れば、どこへ行き着くか。ここでは仮に、ソクラテスプラトン、あるいはアリストテレスに行き着くということにしよう。彼らはいずれも、物理に対して理解があり、その上で形而上学的にものを考えた。それは英語でいえば、phisicsに対して理解があって初めて、それでは扱うことのできない問題があることが正当に理解でき、そこで初めてmetaphisicsが意味をもつということなのではないか。もちろんそのときの「物理」というのは、その当時の水準の物理ということであって、物理学はその後にいくらか発展したので、今となってはメタな立場に立たなくても、物理の枠で考えることのできる範囲がずいぶん広がったといってよい。例えば、以前にいくつかの記事で触れたことのある社会物理学は、それが登場するまでは哲学の領域とみなされていたようなことがらを、形而下の枠組みで考える学問領域であるといえるだろう。

 社会物理学以外の例として、脳科学が挙げられる。脳の中で起こっていることがらについて、ソクラテスらの時代には物理的なことはほとんど何もわかっていなかったが、今では多くの人が、それについて脳科学の枠組みで考えることができるということを知っている。それは現代の教養とか常識と言ってもいいかもしれない。「多くの人が」と書いたけれども、もちろん脳科学の体系に基づいて様々なことを考えられる人間はというと、その数はそれほど多くない。「体系に基づいて」というのは、単に「脳科学ではこうだと言われている」というような、個々の研究成果についての知識があるということとは意味も水準も違う。

 純粋に自然なものごと、つまり人間が関与しないものごとについては、さきほど挙げた哲学者やその後に続く哲学者たちは物理の原理に則して考えた。けれども知性や記憶、あるいは法などのことがらについて、当時はその物理的な対応物を見つけることはできていなかった。だからその種のことがらについては、物理に基づいて考えることの限界を認め、形而上学によって考えた。ものの考え方についてのこうした立場は、これまでに述べてきたように言葉の由来に基づいて評価するなら、全くもって妥当なものだといえる。その思考を支える杖になったのは、しばしば他者との対話であった。それは杖であると同時に、スタイルでもあった。

 物理に基づく思考の限界と形而上学的な思考との関係について、以前に私が考えたときにはもう少し別の手順で考えていた*3。そこでは物理を科学、形而上学を哲学と呼んでいたが、筋としては同じである。ここでその手順を簡単に振り返ると次のようになる。人間が関係する現象について科学的に説明をつけようとしても、「どうしてその人間はそう思ったのか」とか「どうしてその人間はそれを望んだのか」ということは説明できずに残る。そこから先は哲学に頼るしかない。この手順もまた、形而下の思考の限界を超えるものとして形而上学を考えるというこの記事の筋と通じるものである。

 

抽象的思考と哲学、そして形而上学

 この記事の主題はあくまで形而上学と物理学の関係であるが、ここで少し別のことがらを扱う。形而上学とはまた別に、「哲学的」と同じような言葉として「抽象的」という言葉が使われることがある。しかし哲学的に考えることと抽象的に考えることは異なるし、そのどちらも、形而上学的に考えることと異なる。哲学と形而上学の違いについてはすでに述べたので、ここでは抽象的に考えることと哲学的に考えること、あるいは形而上学的に考えることとの違いについて順に述べる。

抽象的に考えることと哲学的に考えること

 まずは抽象的に考えることと哲学的に考えることとの違いを考える。これも言葉の起源や定義に基づいて考えればよい。抽象的に考えるということについては、少し前に別の記事*4でも少し説明をした通り、何か複数の具体的なことがらについて、その間に共通する部分にのみ注目して他の部分は捨て去り(最近の言葉で言えばスルーして)考えるということである。それに対して哲学とは、すでに述べた通り知を愛することであるから、知を愛しながら考えるならばそれは哲学的な思考と呼んで差し支えない。ここで、知を愛する人間が、抽象的に考えずに済むということが果たしてありうるのか、言い換えれば知とは常に抽象的に表現されるものであるはずだから、知を愛する人間ならば抽象的に考えるということと無関係ではいられないのではないかという疑問が生まれるかもしれない。

 もしもあらゆる種類の知が、抽象的に表現されるとしたら、知を愛する人間は知を求める限り、抽象的に考えることから逃れられない。しかし果たして本当にそうだろうか。別に知を愛しているわけではなくても、抽象的に考えることはできるのではないか。哲学が嫌いであっても抽象的に考えることを得意とする人間はいる。数学者や物理学者の中にはそういうタイプの人間も少なくない。彼らの中には、哲学など役に立たないと言ってはばからない人間もいる。あるいは数学者や物理学者を持ち出さなくても、現実の人間関係にたとえて説明することもできる。相手を愛しているわけではなくても、その相手のことがよくわかる場合がある。「別に好きではないけれど、あの人はこういう人だ」と一言で表現できるとき、それは相手に関して抽象的に考えることができていることになるが、相手が好きであるわけではない*5

抽象的に考えることと形而上学的に考えること

 次に抽象的に考えることと形而上学的に考えることの違いを考える。こちらはもっと手短に説明できる。形而下のこと(物理的なこと)であっても抽象的に考えることはできるので、抽象的に考えることと形而上学的に考えることは異なる。物理の体系を支える原理や定理、法則は数式を用いて抽象的に表現されている。それらが形而上学的な思考の産物であるとは言わない。

抽象を通して

 これで抽象的に考えることと哲学的に考えること、あるいは形而上学的に考えることのあいだの関係についてはひとまず説明し終えたので、ここで話を本筋に戻そう。すでに述べた通り、私は自分自身、必ずしも形而上学的に考えることができているとは限らないのではないかと考えている。それでもなお、私はものごとを抽象的に考えることを通して、形而上学的に正しい思考を獲得できるのではないかとも考えている。これはすでに別の記事*6で偏見について書いたこととも通じることであるが、偏見と同様に抽象的に考えるということもまた相対的なことであって、抽象的に考えたからといってそれが正しいとは限らない。ある条件のもとでは正しいが、別の条件のもとでは正しくないということがありうる。だから抽象的に考える場合には、正しく考えることができているかということに注意しなければならない。けれども正しく考えることができていれば、たとえ物理に詳しくなくとも、物理の限界を超えたことがらについて正確に捉えるということができる。私はそう考えている。形而下の思考と形而上の思考とは、正しく行われた抽象を通じてつながっている。だから道を誤らなければ、私は物理に対する自分の力量不足をうまく乗り越えることができるかもしれない。

 とはいえ、やはり形而下の思考、つまり何らかの物理的な実体と対応させてものを考えるということをしたいので、私はこれからも、何かを考える場合に「これを表す物理的な指標は何かないか」ということを常に意識することになるのだろう。

*1:「全く」ではなく「ほとんど」と書いたのはもちろん理由があって、形而という言葉は今でも使われることがあるためである。それは一つには、「形而上学」という言葉が辞書に載っているということ、そして一つには物理現象を指して「形而下の現象」とか「形而下のこと」と言ったりする場合があるということが根拠である。

*2:このような立場は、のちに抽象的に考えることと哲学的に考えることの違いについて述べるときにも登場する。

*3:

plousia-philodoxee.hatenablog.com

 

*4:

plousia-philodoxee.hatenablog.com

 

*5:この記事の冒頭部分で哲学と形而上学の違いを述べたときにも用いた立場である。

*6:

plousia-philodoxee.hatenablog.com

 

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んで

 先日、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読み直した。今回が二度目だった。初めて読んだのは単行本が出版されてすぐの頃だったので、もう二年以上前になる。改めて読んでみて、これまでに読んだ他の作品も含めて一般的に言えることについて、作品の中身には立ち入らず、Amazonのレビューの特徴と関連させながら書いてみようと思う。だからこの投稿では、この作品を単体でどう読むかということや、作品の中のこの箇所はどういうことを表現しようとしているのかというようなことに対する考察などを期待しても、何も出てこないかもしれない*1

 この作品について、Amazonでのレビューの数は800を超えているが、その中に「これは」と思うものはほとんどなく、伏線が回収されていないということを指摘するものが少なくなかった。この種の指摘が多い理由は、推理小説ライトノベル*2が売れている理由とも通じることで、作品の中に明快な答えが示されていないと納得しない読者が多いということなのではないかと私は考えている。あるいは推理小説ライトノベルに限らず、ドラマの中でサスペンスというジャンルが一定の視聴率を保って今も残り続けていることとも通じるかもしれない。それが作品に関する個人の好みの問題なのか、読解力の問題なのか、あるいは人々の間で共有された小説の定義の問題なのかと言われれば、私は定義の問題ではないかと思っている。わかりやすく書かれていること、誰が読んでも気付くように書かれていること、それが小説を小説たらしめる、と。

 またこれとは別のタイプの指摘として、過去の作品で使われた主題や表現、あるいは小物を使い回しているという指摘もいくつか目にした。私は村上春樹の作品をすべて読んだわけではないから、使い回されているものを全て特定することができているかはわからないが、確かに使い回されているなと感じることはある。けれどもこれについても、使い回されているからよくないとは思わない。以前に比べて今回の方がよく書けているならそれで一向に構わないし、たとえ以前と全く同じ形で使っているとしても、作品の他の箇所との関係性がうまく書かれているなら、こういうつながり方もあるのかという発見が得られるので、それはそれで一向に構わない。

 一つ目の指摘の方に話を戻そう。読んでスッキリすることを求める人は村上春樹の作品になじめないということは、ある意味では理解できる*3。この作品に限らず、彼の作品は一般に読者が作品を読んだ後に自分の頭で考えることを強く要求するものばかりで、自分の頭でなにかを考えることを望まない人間の方が多いと私には思えるからだ。自分の頭で考えさせるというところが彼の作品に一貫する本質であるとしたら、個々の作品に登場する音楽やバー、主人公が作る料理や女性との会話がおしゃれすぎるとか、複数の女性と簡単にセックスできるのは不自然といった、彼の作品の特徴としてしばしば指摘されることがらは、作品の本質とはほとんど関係ないと思う。そういう要素が現実味を欠いているという指摘も多いが、私にとってはそれほど現実味を欠いているとも思われない。そういうことに関する私の趣味が、彼の作品における主人公の趣味と似ているわけでもないのに、依然として私はそこにリアリティを感じる。

 小説において、作品の前半で張られたいくつかの伏線が、後半からラストにかけて次第に回収されていくという構成は、確かに読んでいて面白みを感じるパターンであるとは思う。また、それまでの全ての展開を最後の一行でガラッとひっくり返したり、そこで始めて真実が明らかになるというタイプの構成も、面白いと思わなくはない。、全ての伏線を最後の一行で一気に回収するという意味で、これも伏線回収のひとつの極端なパターンである。このパターンは私の知る限りでは乾くるみの『イニシエーションラブ』がオリジナルで、それ以降に模倣が相次いだように見えるし、今もそれは続いている。このパターンで書かれる作品はけっこう人気も出やすく、今後もしばらくは後を絶たないかもしれない。もっともこのパターンについては、私はもうすでに飽き始めている。人間が何かを理解する場合、そのプロセスは決して段階的なものではなく、突如として全てを一気に理解するというところがある。雷に打たれたようにとか、ユリイカという叫びとか、散歩をしていてふと思いついたとか、突然天から降ってきたというように、理解についてのこうしたプロセスを表す言い回しはいくつもある。その意味では、ラストの一行で急に全てが明らかになるというのは、人間が何かを理解するということを表現するためのうまい方法であると理解することもできなくはない。けれどもやはり、そういう理解のしかたは、この手法については当てはまらないように思う。

 小説の構成は、このように伏線とその回収というパターンだけである必要はない。もっと色々な構成のしかたがあってよい。比喩の的確さ、印象に残るセリフ、思わず使いたくなるような気の利いた表現もいいが、構成のしかたもまた、小説を読むときの楽しみのひとつである。そして村上春樹の作品は、回収される伏線もあれば、回収されない伏線もある。あるいはそもそもそれらは伏線ですらないのかもしれない。そういうものをどう読むかは読み手次第である。伏線が回収されてないじゃないかと文句をつけるのも自由だが、私はそれを建設的な読みであるとは思わない。

 リアリティの方に話を移す。一般に、人物に対してリアリティを感じなくても作品全体としてはリアリティを感じる作品もあれば、人物にはリアリティを感じるのに作品全体としてはどうもリアリティを感じられない作品もある。私の場合は前者の方が重要だと考えている。それは単に、部分に対するリアリティよりも全体に対するリアリティの方が重要であるということではない。全体としてリアリティを感じるためには、ディティールに対するこだわりが必要だからだ。それはなにも固有名詞を多用しているかどうかということではなくて、細密画のように細かいところを忠実に表現しているかどうかということなのだと思う。

 それでは私は村上春樹の作品に登場する個々の登場人物に対してリアリティを感じていないかというと、すでに述べた通りそういうわけでもない。私が登場人物に対して感じるリアリティは、大多数の人々に当てはまるとか、共感を得やすいとか、料理の上手い下手とか、女性と簡単にセックスできるとか、そういうこととは直接は関係ないことなのだろうと思う。

*1:この作品単体について考えたことは、またいずれ書こうと思う。

*2:ライトノベルの人気がある理由として、キャラが立っているということもしばしば指摘される。わかりやすい人物像の方が、微妙でわかりにくい人物像よりも読んでスッキリするというのは、わからないことではない。ライトノベルではないが、登場人物のキャラが立っている小説は多い。そういう作品は役者が演じやすいということもあってドラマ化もしやすく、ドラマ化によってますます人気を得るというかたちで回路ができあがっていく場合もある。

*3:もっとも、なじめない理由がこれだけとは限らない。村上春樹の作品はどうも好きになれないという人について、どうして好きになれないのかを説明できない場合もある。『ノルウェイの森』を読んでそう思う人が多いということも目にするが、性的な描写が気に入らないということ以外は、未だにはっきりとはわからない。

コンコルドの誤謬の抽象化

 

尾崎豊のとある曲の中の表現から

 尾崎豊の曲に「Scrambling Rock’n Roll」というのがある。その歌詞の中に「入り口はあっても出口はないのさ」という表現があるのだが、これは「コンコルドの誤謬」の概念を抽象化したような表現のように、私には思えた。いや、もう少し正確な書き方にこだわると、コンコルドの誤謬の概念を抽象化するのに、この表現はいいインスピレーションを与えてくれた。どういうことか、少し書いてみたい。

3通りの抽象化

 あらかじめ結論を述べると、コンコルドの誤謬について、以下の3通りの表現を示した。特にこの記事の趣旨に最も関係するのは β のパターンである。

 α : π(continue) < π(exit) ⇄ P(continue) > P(exit)

 β : O{n(option[x]) }= 2 ⇄ S{n(option[x])} = 1

 β' : iA{n(option[x]) }= j ⇄ iB{n(option[x])} = k (ただし j > k とする)

それぞれの記号がどういう意味で用いられたものであるかは、以下の本文を参照されたい。

コンコルドの誤謬とは

  「コンコルドの誤謬」(Concorde fallacy) というのは、「これまでこの方法でやってきたのだから、今更変更するのはもったいない」という、サンクコスト*1の評価に関する心理的なバイアスを指す行動経済学の用語である。もともとは音速で空を飛べるコンコルドの開発に関して、採算が取れないにも関わらず、既に注ぎ込まれた費用が莫大であったために、製造を中止して事業を撤退する決断を下すのに時間がかかったという逸話(事例)をもとに作られた言葉である。

形式的な表現

 コンコルドの誤謬は、記号を使って次のようにかなり単純に表現することができる。

π(continue) < π(exit) ⇄ P(continue) > P(exit)*2

π: profit,  π(X)=Benefit(X)-Cost(X), X=continue, exit

⇄:「にもかかわらず」を表す記号

P(X): Xとなる確率

コンコルドの誤謬の抽象化

 コンコルドの誤謬は、迷路になぞらえて言い換えれば、ある方法を採用した当初(入り口)に戻ることを拒否して、別の出口(ゴール)を探そうとするバイアスとも言える。どんな迷路も入り口からは出られるのに、それは拒否してゴールから出ようと意地を張ってしまう。ゴールというのは「理想的な解決策」であったり、それこそコンコルドに引っ掛けて言うなら「よりよい着地点」ともいえる。本当はスタート地点に戻るのが妥当であるのに、そのことをなかなか認めることができずに、きっとどこかにゴールがあるはずだと意地を張ってしまう状態とも言える。

迷路についてのイメージを媒介とした抽象化

 抽象化にあたって、迷路について私が抱くイメージが役に立った。コンコルドの誤謬の概念を抽象化するにあたって、なぜ「迷路」ということが関係するのか。これまでにいくつかの記事で、迷路(について私が抱くある種のイメージ)が、私がものを考えるときの核になっている場合があることを示してきた。それを振り返ることで、抽象化の内実がいくらか見えやすくなる。とはいえその全てを振り返ることは避け、ここではそのうち、「迷路との壁と道を選ぶ人間」を取り上げ、他の記事*3は簡単なコメントをつけて脚注へ回した。もし気になったら個々の記事を読んでいただければと思う。

過去の記事を用いた説明

 「迷路との壁と道を選ぶ人間」では、人間の選択を外から左右する要因と、それに対して自分の道を主体的に選ぼうとする人間の関係について書いた。そこでは、あくまでもゴールへ向かって進むことを前提としていたけれども、コンコルドの誤謬を抽象化した概念*4をここに当てはめると、迷路の中にいる人間には「ゴールへ向かって進む」だけではなく、「スタート地点へ戻る」ということも合理的な選択の一つとして加わることになる。それはある意味では「初心を忘れるな」ということでもあるかもしれない*5。このことをいささか教訓めいた言い方でまとめるとすれば、「迷路を進むとき、ゴールだけがゴールとは限らない」というところだろうか。進むということを意識すると、どうしても未来の方へ意識が行きがちで、スタート地点に戻るというのが過去へ戻ることのように感じられ、ためらいがちになるかもしれないが、過去へ戻るということが正しい選択である場合もあるのだ。きちんと考えたならば、ためらわずに入り口へ戻ればよい。

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抽象化の過程

 一般に何かを抽象化するときには、その対象のうち本質的な部分のみを取り出し、本質とは関係のない他の部分は思い切って捨てる。この「捨てる」ことの方を「捨象」と呼ぶ。ではコンコルドの誤謬の概念を抽象化するというときに、私は何を捨象したのかといえば、それは計測可能なコストの概念である*6コンコルドの誤謬では、あることがらを続行するか否かを判断するのに、続行した場合のコストとベネフィットの差(つまりプロフィット)、そして続行しない場合のプロフィットを比べて、よりプロフィットの多い方を選ぶ場合に、本来であればプロフィットの多い方が選ばれるのが合理的であるはずなのに、実際にはそうならないということが問題になる*7。そこでコストの概念が出てくるわけだが、コストを意識しなくても、人間は初めから特定の選択肢が見えなくなっている場合がある*8コンコルドの誤謬の場合もそうで、意識されなくても同じ結果になるのであれば、思い切って捨象してもいいのではないかと私は考えたわけである。その結果が、上述の教訓めいた表現として結実したということになる。

形式的な表現

 これについても、記号を用いた簡潔な表現を与えておくことにする。

O{n(option[x]) }= 2 ⇄ S{n(option[x])} = 1 *9

i{n(option[x])}: xについて、ある特定の個人の視点i ( i = O, S ; O: Objective, S: Subjective)から捉えられた選択肢(option)の数

⇄:「にも関わらず」を表す記号

抽象化を重ねる

 さて、記号を用いた表現を与えることもできたので、記事のタイトルにもあるようにコンコルドの誤謬の概念を無事に抽象化できてめでたしめでたし…とここで終わりにしてもいいのだが、この抽象化はもう一段抽象化が可能なので、それを示すと次のようになる。

iA{n(option[x]) }= j ⇄ iB{n(option[x])} = k (ただし j > k とする)

 特定の人物にとっての客観的な選択肢の数と主観的な選択肢の数を比べていた先ほどとは異なり、今回は iAとiBは別人物であっても構わない。また選択肢の数も一つや二つではなくもっと多くても構わない。要するに一方の人物にとっての選択肢の数が、他方の人物にとっての選択肢の数よりも多くなるということであって、これは取引なり交渉なりにおける「情報の非対称性」についてのある種の形式的な表現といっても差し支えないかもしれない。コンコルドの誤謬について、迷路に対して私が持っているイメージを媒介としてそれに形式的な表現を与えて抽象化を行ってみた結果、思わぬ形で「情報の非対称性」という別の概念とのつながりが示されたのは、私にとってちょっとした驚きであった*10。ある概念を変形していくと、いつのまにか別の概念と通じているというのは、トポロジーにおけるドーナツとコーヒーカップ、あるいはトポロジーに限らずより一般にいえば、同値な変形ということを思わせなくもない。

経験から得られたことを整理するということについて

 経済学を学んだ経験と、行動経済学に関する本を読んだ経験と、小・中学生の頃に迷路を書いていた経験、中学生の頃からずっと尾崎豊の曲を色々と聴き続けてきた経験など、これまでの私の経験のいくつかが、少しは整理されたように思う。全くもって個人的な、単なる自己満足に過ぎないではないかという誹りを免れないかもしれないが、経験を通して記憶に残っていることがらを整理していくことは、自分のものの考え方の原理なり核なりを点検する営みとして、少なからぬ満足感を覚えた。最近、ショウペンハウエルの『読書について』と『知性について』の中に収められたいくつかのエッセイを読んだ影響もある。ただ蓄えるだけではなく、それを整理しなければ使い物にはならない。最後に少し引用する。

 数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、知識のばあいも事情はまったく同様である。いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。

(ショウペンハウエル『読書について』(岩波文庫)思索 p.5より)

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

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知性について 他四篇 (岩波文庫)

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選択しないという選択: ビッグデータで変わる「自由」のかたち

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CODE VERSION2.0

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CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー

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*1:英語では「sunk cost」。「埋没コスト」とも呼ばれる。すでに負担してしまった費用のことを指す。取り返しはつかないのだから、すでに払ってしまった費用について考えてもしょうがないというのが理性的な判断なのだが、人間は「これまでにこんなに払ってきたのに…」と気にしてしまうバイアスを抱えているらしい。

*2:ここではコンコルドの誤謬の元の逸話に忠実に、「続行」(continue)と「撤退」(exit) を用いたが、この定式化を抽象化して、 π(A) < π(B) ⇄ P(A) > P(B) とすると、本質を損ねずに概念の汎用性を高めることができる。なおこの抽象化は、本文で論じる抽象化とは異なるので注意が必要である。

*3:古いものから順に取り上げる。

[1]「よい面を活かすことのむつかしさ」では、人間の創造性と科学に基づく予測について、特定の経路を選択することがどの程度妥当なことなのかということを扱った。この記事の中でも「迷路との壁と道を選ぶ人間」が登場する。

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[2] 「興味がないものは、視界に入っていてもちゃんと見えてはいない」では、自分と相手が同じ単語を使っていても、それについて同じように認識しているとは限らないということについて書いた。その言葉の例のひとつとして、「迷路」という言葉を挙げた。いくつかの記事でこの言葉を使ってきたので、その一つないしいくつかを読まれた方であれば、私にとって「迷路」という言葉がどのような意味を持つものであるかということが、多少はわかってもらえるかもしれない。もっとも、私自身、この言葉について十分に理解しているとは限らないし、またそれを適切な表現で伝えることができている保証もない。

 当たり前といえば当たり前のことであるが、むしろ当たり前であるがゆえに、現実のコミュニケーションにおいてはしばしば忘れられがちであって、その結果生まれる自他の間の齟齬の原因がこの「当たり前」のことであることに気付けなかったりするものだ。 

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[3] 「文体という建築、或いは文体という迷路」では、私にとっての迷路のイメージについて、一つの段落を割いて書いている。私にとって迷路という言葉がどういう意味を持つのかということをつかむのには、とりあえずこの記事だけでも読んでみるというのが一番手っ取り早い方法と言えるかもしれない。

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[4] 「分裂する他者」では、文章全体に渡って「迷路」という言葉が使われている。記事自体の主題は、私にとって迷路を描くことが他者を理解するための一つの方法だったということである。「ユーザーベース」や「ユーザーファースト」という言葉があるが、私の場合は迷路を作る経験が、ユーザーについて考える経験になっていたとも言えるかもしれない。 

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[5] 「みかん」では、これまでに作ったことのないものを作るということの、私にとっての身近な例として迷路を挙げた。記事自体の大まかな内容は、「みかん」をどう説明すればいいかということを通じて、実体論と関係論のどちらも私には信用ならず、当時私の中でブームだったネットワーク科学もまた、みかんを説明するのにそれほど役には立たないということだ。そしてみかんをちゃんと説明できるようになれば、これまでの私の人生においてそれなりに意味を持っていると考える迷路についても、ちゃんと説明できるようになるのではないか、さらにそこから、自分とはどういう人間であるかということを考える糸口がつかめるのではないかといういささかの希望も、そこには込められている。

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*4:注意深い読者は、コンコルドの誤謬を抽象化した概念なるものについて、私はまだ一切の定義を明らかにしていないことに気付かれたかもしれない。もちろん定義を与えないで文章を締めくくるのは論外なので、後にいささか教訓めいた表現によって、定義を与える。しばし未定義のまま読み進めて頂きたい。

*5:「ある意味では」や「かもしれない」などと断定を避けた書き方をしたのは、「初心を忘れるな」と言う言葉を世間で用いられている意味で使うとすれば、ということで、この言葉の本来の意味は別のものであるからだ。初心に帰るというのは、何かを始めた頃の自分を思い出すということではなく、自分にもまだ不慣れな初心者の頃があったのだということを思い出すという意味である。例えば下の2つのサイトのページなどで詳しく解説されている。この言葉は世阿弥の「花鏡」の結びの一部「初心忘るべからず」がルーツであるらしい。

(1) http://blog.share-wis.com/?p=425

(2) http://www.geocities.jp/michio_nozawa/03episode/episode38.html

*6:この点が先に記号を用いて行った抽象化とは異なる点である。二つの抽象化が出てきてこのままでは紛らわしいので、ここでは仮に、コストの概念を捨象した抽象化の方を「抽象化β」、記号を用いた方の抽象化を「抽象化α」と呼ぶことにする。すでに示した π(continue) < π(exit) という形の定式化では、抽象化した後にも「π」の記号が残っており、πの定義上、コストの概念は必ず含まれるので、コストの概念は捨象されていないといえる。それでは抽象化αの方では何が捨象されたのか(言い換えれば何に目をつむったのか)といえば、continueやexitといった個々の行動の内容である。このように、一口に「抽象化」といってもその結果は一通りでなく、何を捨象するかによって抽象化の結果は異なるのである。

*7:この点は既に記号を用いた定式化の箇所でも触れた。

*8:特定の選択肢が初めから見えなくなってしまっているというのは、オプトインとオプトアウトについての議論と関連する論点を含む。キャス・サンスティーンの邦訳最新作である『選択しないという選択』では、ネットの利用において、何もしなければデフォルトでは選択したことになっていて、もしも選択しないならばわざわざ自分でチェックボックスからチェックを外さなければならなくなっている「オプトアウト」の仕様と、自分から選択ボックスにチェックを入れなければ選択したことにはならない「オプトイン」の仕様の二つを取り上げ、近年では意図的にオプトアウトが多用されていることの危険性を指摘している。この論点は既にいくつかの記事で私も目にしたことがある。いや、むしろこういう論点なり問題意識なりが以前(おそらく盛り上がりを見せるようになったのは数年前)からあって、それをある程度体系的な形でまとめたものがサンスティーンの同作であったという順序であろう。ここではGIGAZINEの次の記事を挙げておく。

gigazine.net

 あるサービスについての特定の仕様が、知らず識らずのうちに私たちユーザーの行動を方向付けたり、時にはそのうちの一つに決定しさえする現実への危険性という意味では、『CODE』においてローレンス・レッシグが人の行動を制約する要因として法 (law)、規範 (norm)、市場 (market) に加えて4番目の要素として指摘した「アーキテクチャ」(architecture)の概念を巡る議論とも接続する内容である。

*9:こちらは少しわかりづらいのでコメントをつけておくと、客観的には選択肢の数が二つあるにも関わらず、主観的には選択肢の数が一つしかないということを表す。

*10:もっとも、コンコルドの誤謬と情報の非対称性の二つの概念が、ある種の形式的な表現においてはお互いに通じているということについては、もう少し丁寧な検討を要するという気もしている。これについても、いずれ整理された形で示すことができればと思っている。

ポスト真実を考える前に

 

AbstractなAbstract

 今回の記事は8246字とそれなりに分量があるので、本論へ入る前にこの記事全体の構成を示す。それはアルファベットを使った記号で単純化すると、

D→Q[present]→V(α→β)→P(Q[past]→PS[V1, ... ,V5])→Q'[present]

と表現できる。Dは定義、Qは問題提起、Vは視点を指し、流れを大まかにいえば「ポスト真実」という言葉の定義から始めて私なりに問題提起を行い、それについて2つの視点から考察を行い、それが実は私がこれまでにいくつかの記事を通じて考えてきたことと通じるということを示し、最終的には当初の問題提起を少し修正したところで議論が終わる。もう少し詳細に各記号が何を指すかについては、以下の本論で随時示したので、それを参照しながら議論の細かい流れを追ってほしい。全体を通して私の中にある基本的な考え方は、個人の努力に期待するのは困難であるので、その前にまずは前提条件の方を整えたり改善したりする方が建設的なのではないかということである。個人の努力を軽視するつもりはもちろんないが、現実にそれが十分発揮されているとは思えないのである。

ポスト真実の定義と問題提起:D→Q

 アメリカ大統領やイギリスのEU離脱を巡る国民投票などをきっかけとして、「ポスト真実」(post-truth)ということが盛んに言われるようになった。 かつては「真実が何であるか」ということが問題であり、人々に真実を伝えることが重要であったが、もはや人々は真実が何であるかなど求めておらず、「聞き手にとって嬉しいことであるか(基本的には自分が豊かになれるか)」ということが重要であるというような事態を指す言葉、端的に言って真実が重要であった時代のあと(ポスト)の状況を指す言葉として用いられる。これが定義(Definition:D)である。

 しかし私は、この言葉を使って議論をする前に、まずは人々に真実を伝えることを徹底させる方法を考え、それを実践することを優先するべきではないかと思う。真実を伝えるやり方がよくないだけで、うまく工夫して伝えれば、人々は今でも真実を受け入れるだろうと私は考える。それでもなお人々が真実を拒絶し続けるというのであれば、そこで初めて「ポスト真実」なるものについて考えればいい。

    なるほどネットの登場以降、調べれば大抵のこと(真実)はわかるはずであるのに、それでも実際には人々は真実を無視したような決定、あるいは真実を知っている人間であれば本来は不合理であると考えるはずの決定を下してしまうというのがポスト真実を主張する人間の言い分だろう。しかしそこで前提となっている「真実は調べれば簡単に見つかる」というのはそもそも妥当だろうか。

 ここで、「ポスト真実」について考える前に、より多くの人により多くの情報が届きやすくなる方法の可能性を考えるべきだと私が考える根拠を先に述べておきたい。それは人々が今も本を読み、専門家の話を聞きに行ったり、その動画をYouTubeニコニコ動画などで見たりしている現実が確かにあるということである。もちろんその数は人口全体から見れば一部であるが、それが一部であるのは、そういうことに関心がない者が多いからというよりも、そういうものを求めていても、どこから手をつければいいのかがわからないということが原因なのではないか。これは言ってみれば、勉強しなければいけないのはわかっているが、どの参考書や問題集から手をつければいいのかわからない受験生と同じである。

 もちろんこれは私の主観的な推定に過ぎず、実際には真実を知ることに関心のない人間ばかりである可能性もある。議論の根拠は客観的である方が望ましいという立場からすれば、これはいささか心もとなく、そうかといって国民全員に聞いて回ったり、あるいはそれに代わる客観的な確認の手段を私が持っているわけでもない。けれども反対に、真実など求めていない人間ばかりと客観的に示されたわけでもない。つまり「ポスト真実」を主張する側も、トランプ大統領の勝利やアメリカ国内の市民の様子、あるいはイギリスのEU離脱に関する国民投票における世論などを根拠にしていても、それが「ポスト真実」の証拠であると考えるのはあくまで主観的な推定に過ぎない。

 したがって、ナシーム・ニコラス・タレブの「ブラックスワン」と同様のロジック、つまりブラックスワンは存在しないと証明されたわけではないならば、ブラックスワンが存在する可能性を残しておくべきであり、存在する可能性をもとに議論を組み立てることにも一定の価値があるのと同様に、真実を求める人間がいないと決まったわけではないならば、その存在に賭けて議論を組み立てることにも一定の価値があるのではないかということだ。そして少なくとも真実を求めている人間全員にそれが届くまでは、ポスト真実を考えるのは待った方が、長い目でみればプラスなのではないか。これは冒頭で触れたアメリカやイギリス、あるいはフランスやドイツ、そして日本も含めて「ポスト真実」とその潜在性が問題とされている国の全てで言える。市場のアナロジーでいえば、まだ開拓可能な市場は残されているのに、「もうこれ以上は無理」といっていささか尚早にそこから撤退しようとしてはいないか。

 ネット上にアクセス可能な情報が豊富にあるということと、実際に人々がそれを参照しているかということは別であるが、「ググればすぐにわかるのに」と言う人はこの二つを混同してはいないか。この二つを混同しているとそこから先の議論はあまり実のあるものにならないのではないか。ググればすぐにわかるにも関わらず、実際には人々はググらないというときに、真実に関心がないからと考えるか、真実を知るための手間をかけられないだけなのではないかと考えるかでは、そこから先の対応が変わってくる。そして私は、現実に起こっているのはどちらかといえば後者の事態ではないのかと思うのである。つまり人々は真実に関心があるが、単にそれを知るための手間をかけるゆとりがないか、より簡単に真実を知ることができるようなシステムが現時点では存在していないだけではないか、と。もっともこの2つは、同じといえば同じである。これが私の現在の問題提起(Question:Q)Q[present]である。

 もっとも、ポスト真実について語る人間の思いもわからないではない。先に述べた「届きやすくなる仕組み」などもう存在しないということを前提にすれば、その先の事態としてのポスト真実について考えることにも一定の妥当性がある。ただし考える者にとってそんな方法はないように思えるということと、そんな方法が原理的に存在しえない、または現実に存在しないということは別である。そしてたとえ「現実に存在しない」ということの方が示されたとしても、「原理的に存在しない」ということの方が示されたわけではないならば、ポスト真実について語る人間にとってその方法が存在しないと想定されていることを理由に、そういう方法を考えないというのは妥当でない。まだ期待する余地はある。

もっと簡単に真実を知るために:Vα→Vβ

 DからQへ進み、そこから先へ進むことを考える。社会で起こる問題に対して、日々いろいろなメディアから多くの記事が書かれ、それにいろいろな人が反応するが、結論や参照している情報が似たり寄ったりの記事も少なくない。そういう記事がいくら増えても、言葉の厳密な意味で「情報」が増えたとは言えない。誰も指摘しなかったこと、あるいは誰も参照しなかったような情報を参照しなければ、情報は増えない。ある記事やそれに似たり寄ったりの記事が大量に複製されて人々に共有されても、人々がそこからさらに進んで考えるようになるとは限らない。すでに指摘した通り、考えるための「ゆとり」がないのだ。何のことはない、朝から仕事があり、夜遅くではないにしても、帰宅してから政治なり経済なりについて時間をとって考えるのは疲れていて面倒であるということだ。そしてこれに加えて、ゆとりがないために、何かについて真実を知るために自分で考え続けるという経験に乏しい人間は、単に不慣れであるという理由から、自分で考え続けることができないという事情もあるだろう。そこでまずは、より多くの人の頭の中に、より多くの情報を入れるための効率的で実現可能な方法を考えるのがいいのではないかと思う。まずはある視点(Viewpoint:V)を足がかりにして考える。

視点α:情報を発信する側の工夫

 より多くの情報を人々に伝えるために、まずはある問題に関して人々へ発信する情報の量を増やす方法を考える。その具体的な方法として、「他の国ではどうか」ということを紹介する(国際比較)というテクニックがある。「日本では〇〇である一方、アメリカやフランスでは□□、そして中国では△△である」という書き方である。これは時々見かけるし、こうした国際比較を行う記事は少しずつ増えてきていると思う。けれどもまだその数は十分とは思えない。海外の事情について、日本語で知ることのできる情報はまだ限られているので、英語で書かれたソースを参照するというのも有効である。これならけっこう多くの人間がやろうと思えばできる。英語で何かを読むということによって出会えるものということについて、私は以前に記事を書いた。

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 そしてフランス語やドイツ語、あるいは中国語や韓国語ともなるとできる人間の数はもっと限られてくる。さらにその内容は、それを担う人間が専門家であることを反映して、自然と専門的な体裁を取りやすくなる。国際比較は個人の努力に期待する方法のひとつと言えるが、一般にこういう方法はハードルが高い。国際比較に限らず、固有名詞や統計や引用などのテクニックを用いた情報量が多い記事が少ないことを考慮すれば、自ら進んで努力をしようという人間は、たとえそれが記者であっても少数派であるというのが今の現実であるとわかる。これが視点α(Vα)とその限界である。そこで別の視点β(Vβ)を考える。

視点β:技術

 そこで、情報を発信するために個人が行う努力に賭ける前に、情報を発信するためにその個人が利用できる技術(テクノロジー)のレベルと上げるという方法も考えられる。ここで個人と言うのは、技術を使うことに長けた人間に限らず、一般的な個人、つまり大衆の中の平均的な個人を想定している。一部のインフォグラフィックスを作ることに長けた人間や、膨大な資料なりデータなりをうまくまとめるアカデミックなトレーニングを積んだ人間などではなく、自分のサイトを作っているわけではないが、TwitterFacebook、あるいはブログで何かを書くくらいはしているというような個人である。たとえば他言語から日本語への翻訳について、Google翻訳の精度が上がれば、状況は改善に向かう可能性はあるが、日本語の文法の特殊性や日本語訳された外国語のデータの量が少ないことなどが原因で、なかなか精度は上がらない。かといってGoogle翻訳の他に方法はないのかというと、今のところ「これは」と思う方法が見当たらない。

 そして、仮に発信のための手続きを簡略化する何らかのテクノロジーが存在したとしても、つまり視点βの問題はクリアしたとしても、人々の元にそれが届きにくいままでは、その効果は限定的である。したがって、届きやすくなるシステムも考えなければならない。上に挙げたような情報発信のための技術よりも、私はむしろこちらの方が問題ではないかと考えている。これが視点βの先にある問題である。結論ありきや予定調和にならぬように注意しなければならないが、この問題はこれまでの私の問題意識と通じると私は考えている。先へ進むために、一旦あえて過去へ戻る。これがβの先、過去に辿ってきた経路(Path:P)である。

これまでの私の問題意識とどう通じるか:P(Q[past]→PS[V1, ... ,V5])

 これまで辿ってきたような筋道を経て、私はポスト真実について考える前に、私がこれまでにいくつかの投稿で考えてきたこと、つまり検索エンジンの抱える問題を考えるということにつながってくる。これは私が過去に辿った経路(P)である。それは私が過去に行ったある問題提起(Q[past])から始まる。つまり、そもそもより多くの人間により多くの情報が届きやすくなるシステムとして生まれたものが検索エンジンではなかったのか。それにも関わらず、検索エンジンが機能不全を起こしているとすれば、ポスト現実について考えるよりも前に考えるべきは、実は検索エンジンのことなのではないかという疑問である。

 検索エンジンが人間との関わりの中で抱える問題について、私が初期の頃に考えていたことは、記憶と思考の関係ということであった。つまり検索エンジンで多くの情報を集めて考えるということと、自分の頭の中にすでに蓄積され整理された情報をもとに考えるということは異なる。それでは検索エンジンはどの程度人間を賢くするかという問題意識である。以下の2つの記事の主題はこのことであった。

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  自分の記憶に蓄積された情報が、ある問題を考えるために十分な量でない場合、まずは多くの情報を集める必要がある。その際に検索エンジンが用いられる。以下では集めた情報を元に考えるということよりも以前の段階、つまり「情報を集める」という段階について、私がこれまでに考えてきたいくつかの視点を取り上げる。これらは上の2つの記事で扱われている問題の前段階(Preliminary Stage:PS)について考えるための視点(Viewpoint:V)と位置付けられる。視点は5つあり、それらを経由して、当初の問題提起Q[present]はいくらか書き換えられる。それがQ'[present]であり、この記事の終着点ということになる。

視点1 時系列に沿って考えるということ(通時性)

 検索エンジンの抱える問題として、ある特定の問題について時系列に沿って情報を得ることが容易でないということを、 以下の記事で書いた。検索エンジンには期間指定の機能があるが、それはあるページが書かれた期間、あるいはそれが更新された期間を指定することであって、必ずしも特定の問題に関する議論を時系列に沿って理解するのに向いているとは限らない。そして特定の問題について時系列に沿って考える場合に、その国や他の国あるいは地域で過去に似たような事態が生じた例はなかったのか、もしそういう例がある場合、そのときはどういう風に事態は進み、当時の人々はどういう対応をとったのか。そしてその対応はうまくいったと評価できるのか、今起こっている事態と条件が異なる点はないのかなどということを考えることもできる。これは通時性に対する意識であって、歴史についてどれほどまともに考えたことがあるかという個人の経験に依存する意識であるかもしれない。

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視点2 ある程度の時間をかけて情報を集めて考えるということ

 あるいは、ある問題について考える場合に、そもそも時系列に沿って考える以前に、一定の時間の幅をもって考えるということがなされないという問題もある。個々の問題について、その瞬間その瞬間の反応ばかりが蓄積されていって、後からまとめて振り返るということがなく、時間が経てばすぐに忘れられていく。事実なり解決策が見えたあとで忘れられていくならばまだしも、そういうものが明らかになる前に多くの人が飽きてしまう。しかも飽きる原因を作っているのは、同じような報道を延々と繰り返すメディアであったりする。情報は、常に短期で評価されるべきものとは限らない。一定の時間をかけて評価が可能になる情報もある。そういうことについて、以下の記事で論じた。

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視点3 ランキングの生み出す食い違い

  あるいは検索エンジンが行うランキングについて、客観的なルールで記述されたランキングと、自分個人の主観的なランキングとが食い違う場合がある。これがどう問題なのかと言うと、例えばA、B、Cという3つの情報があり、ある個人が時間の制約で3つのうち1つか2つしか参照しないとする。ここで今のGoogleのランキングのルールではBACの順にランクづけされたとすると、この個人は情報Cは参照しない。しかし可能性としては、実は情報Cこそが、この個人が求めていた情報であるということがありうる。この個人の主観では、CABというのが3つの情報のランキングであるというような場合である。この「食い違い」の問題について以前に記事を書いた。

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視点4 そもそも検索エンジン以外の方法はないのか

 ここまでの3つは検索エンジンが問題であるという前提で考えてきたが、そもそも検索エンジンのしくみについての形式的の記述をチューニングする(要するに検索エンジンを支えるプログラムの問題)以外の方法はないのかということも考えられる。キュレーションやSNSRSSフィードなどを形式的に記述したルールを変更・修正するという方向性はどうかということも、以前に考えた。

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視点5 すでに存在している情報の単位が適正なのか

 現在、インターネットには様々なページが存在しているが、そもそもある問題について理解するために、「ページ」という単位は適正なのかという問題もある。「答え」(真実や解決法)を知ることが目的なのであれば、文章中の特定の一文や段落といったページよりも小さな単位、あるいは逆に複数のページが集積されたサイト全体や複数のサイトの複数のページといったページよりも大きな単位を基準に考える方が妥当である場合もある。別の言い方をすれば、あるページの中の特定の部分だけを抜き出した方がいい場合や、特定のページだけでは不十分なので複数のページをうまく組み合わせなければならない場合などについて、ケースバイケースで判断しているのは、今の時点では人間であるが、そういう判断を大衆の努力に委ねてもゆとりがないなら実現は困難なのではないかと私には思える。だから人間に代わって、なるべく恣意性を排した形(誰の目にも明らかな偏りを含まないような形)でその判断を自動的に行えるシステムを作るということができないか。そういうことについて以下の記事では考えた。

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結論:Q→(Vα→...→V5)→Q'

 ポスト真実について考えるよりも前に、考えるべきこと、考える余地のあることがまだいくつもあり、しかもそれらは長期的に見てポスト真実について考えるよりも人類全体にとって資する。これはポスト真実などスルーして、デマやフェイクニュースの削除を効率化しようとし続けているGoogleFacebookとも共通した問題意識なのではないかと私は考えている。彼らもまたそういう意識で考え、動いているのではないか、と。 これが当初の問題提起(Q)を一定の順序で修正した問題意識(Q')である。ポスト真実、フェイクニュース、キュレーション、デマ、集団思考などの言葉が雑然と織り交ぜられて議論が展開されている状況について、一定の整理された見解を与えることができれば幸いである。

笑うことと面白いこと

 

 笑うかどうかと面白いかどうかは別のことだと私は考えている。理由はいたって単純で、笑っているが別に面白いとは感じていないとか、逆に笑ってはいないが面白いと感じていることがあるからだ。英語でいえばfunny(笑える)とinteresting(面白い)の違いといえる。これについて考えたことを、例を4つほど挙げて書いてみようと思う。

笑いはするが面白いとは感じないこと:アキラ100%PPAP

 去年流行ったものの中から例を挙げると、たとえば股間をお盆で隠しながら色々なことをして、観客をヒヤヒヤさせるという芸をする、アキラ100% *1という芸人がいる。和牛 *2という別のお笑いコンビのコントを色々見ていた私はたまたま関連動画の中で和牛とアキラ100%のコントを両方含むような動画を見てその存在を知った。アキラ100%のコントを見ていたとき、私は顔が笑っていた。それは何というか、ある種の条件反射のようなものなのではないかと思う。ある条件に置かれると私の口元は緩み、気付くと笑ってしまっているということなのではないか。そういう意味では、その時の私は単なるパブロフの犬と同じような存在だと言っていい。

 しかし、笑いはしたのだけれども、私はアキラ100%のいったい何が面白いのかということはわからなかったし、今もわからない。ネットでアキラ100%について論評している記事を目にして、実はこういう解釈ができるというのを読んだときも、一理はあるかもしれないがと私はそれが理由で面白いとは感じなかった。

 もう一つ、PPAPも世間でヒットする少し前にTwitterで目にして、そのときは笑ってしまい、職場の同僚に紹介しさえしたのだけれども、何が面白いのかと言われると、特に面白いとは感じない。

 その場その場で笑わせることはけっこう誰にでもできるのかもしれないが、生き残り続けることができるかどうかは、面白いかどうかということが鍵になるのかもしれない。パッと現れては一大ブームを生み出し、ものすごい勢いでYouTubeの再生回数が伸び続け、それで広告収入がすごいことに…というようなことはあるかもしれないし、そういうタイプの現象はSNSの登場以降は特に起こりやすい条件になっているとは思うが、そういうものに持続性はない。SNSで流行ったものは、それがSNSという空間であるがために、短期間で忘れ去られたり飽きられたりして終わる。そして人間というのは似たり寄ったりにできているので、一定の条件さえ満たせばけっこうそれなりの数の人の笑いを取れてしまうものなのではないかと思いもする。では私が笑いを取れるかと言われれば、私にはとれないのではないかと思う。

笑いはしないが、面白いとは感じること:『自民党』と『経済成長の果実』

 上に挙げた二つの例は、「笑うが面白いわけではないこと」の例である。では「笑うわけではないが、面白いこと」はどうかというと、私の場合は本や動画がほとんどだと思う。本にしろ動画にしろ、あるいはそれ以外の何らかの作品にしろ、私がそれまで知らなかったことを元にして作られているものには新規性を理由に面白さを感じるし、私がすでに知っていることだけを元に作られているものであっても、私には思いも寄らなかったような発想や構成で作られているものにも、やはり新規性を理由に面白さを感じる。好奇心が強いから自然とそういう好みになるのだろう。

 例えば私は最近、中公新書から出ている中北浩爾の『自民党』と中公文庫から出ている「日本の近代」というシリーズの第7作にあたる猪木武徳の『経済成長の果実』を読んでいる*3。私は高校時代に政治に詳しい友達がいたこともあって、政治に詳しくないことについて少しコンプレックスのように感じていた。それは大学以降もずっとそうで、その割にちゃんと腰を据えて政治のことを学ぶことはないままだったので、今更ながらこういう本を読み始めたわけだが、当然のように自分が知らない言葉、それも固有名詞が本文にどんどん出てくるので、読んでいてとても面白く感じる。

 たとえば『自民党』なら、党の中でどういうことが起こってきたのか、党の中の派閥はどういう機能を果たしているのか、そのときそのときの経済の状況が変化すると自民党はそれにどう対応しながら変化してきたのか。民主党が政権をとったときには自民党はどうしたのかなどなど、がうまくまとまっている。まだ読み始めたばかりだけれども。ちなみにこの本を読み終えたら、自民党関連で中公文庫から出ている北岡伸一の『自民党』を読みたいと思っている。政党というのはどういう機能があり、それとは別に実際にはどういうものとして機能してきたのかということには、自分が出馬するかどうかとか、自民党に票を入れるかどうかとか、あるいはこれを知ったことで自分の年収が具体的にいくら増えるか(何の役に立つか)ということとは別にして、それなりに関心がある。

 あるいは『経済成長の果実』であれば、高度成長の時期に日本の社会はどういう変化をしたのか、それは今の日本とどうつながっているのか、当時生まれた制度や法律、企業の慣行は今も妥当なのかどうかなど、色々なことを考えるのに、とても参考になる*4。ちなみにこの本を読み終えたら、中公文庫から出ている吉川洋の『高度成長』を読みたいと考えている*5

 どちらの本も、テレビでは尺(時間)と視聴者層についての番組制作会社側の想定と広告代理店との関係などの複合的な事情で、ここまでまとまった内容を知ることはまずできないだろう。ちなみに私の家にはテレビはない。テレビゲームをするタイプでもないし、面白そうなドラマはTverやHuluで見ているので、わざわざ決まった時間に番組を見たいとも思わないし、いちいち録画するのも面倒なので、私は上京してきてからずっとテレビのない生活を続けている。それで困ったと感じたことはない。

 少し話の筋が逸れてしまったが、では私はこういう本を読んでいるときに顔が笑っているかというとそんなことはなくて、驚くほど無表情でありながら心の中ではとても面白がっている。いや、むしろそういうものの方が、顔が笑っていて面白いとも感じるものよりも、面白さの水準は上なのではないかとさえ感じる。

笑うことの良し悪し

 ここまでの書き方では、筆者は単に笑っているだけであることを批判したり、アキラ100%やPPAPを批判したいのかというと、私はそういうことを言いたいわけではないし、実際にそう思っているわけでもない。

 笑うことというのは、時と場合によって良くも悪くもなる。だから面白くないのに笑うことは常に悪いというわけでもないし、反対に人を笑わせることは常に良いことだとも思わない。時々後者のような考え方を根拠にして自らの芸人哲学を語る芸人を目にするが、私はその種の芸人哲学には用心している。その場にいる人間が笑っていても悪いことというのはあるし、そういう笑いの取り方を例えば政治家が行えば、失言(あるいは不適切な発言)を理由に失脚に追い込まれることすらある。

要するに何が言いたいのか

 いくつか例を挙げたりしながら書いてきたけれども、結局何が言いたいのかというと、笑うということと面白さというのは別次元のもので、一般には両者に正の相関*6があるように思われているが、それすらも誤りなのではないかということが一つ、もう一つは、私の場合は好奇心が強いので新規性を感じる「面白いこと」の方が「笑えること」よりも価値が高いと感じているということ、この二つである。

 

 

自民党―「一強」の実像 (中公新書)

自民党―「一強」の実像 (中公新書)

 
自民党―政権党の38年 (中公文庫)

自民党―政権党の38年 (中公文庫)

 
高度成長 (中公文庫)

高度成長 (中公文庫)

 

 

 

*1:ここに昨年のR−1の決勝戦でのコントを貼っておく。

www.youtube.com

*2:アキラ100%と同様にここにコントの動画を貼っておく。

www.youtube.com

*3:この二冊だけでは「そういう高尚な本の方がアキラ100%やPPAPより上」という誤解を受けそうなので、もう少し別の例を挙げると、「ボケて」の中には単に瞬間的に笑えるだけではなくて、面白いとも感じるネタがけっこうある。

ボケて(bokete) - 写真で一言ボケるウェブサービス

*4:私が猪木武徳を知ったのは大学のゼミで指定されたテキストのひとつが中公新書の『戦後世界経済史』だったことがきっかけだった。その後ゼミが終わり、しかし私は留年したために大学の5年目に突入した頃に『経済学に何ができるか』を読んだ。そしてその後、同氏は私の母校の教授に就任した。その当時の学長は私のゼミの担当だった教授で、ゼミで同氏の著書がテキストに指定されたのは教授の評価が高いということが理由で、ああついに教授として呼んだのかと思った覚えがある。

*5:吉川洋といえばマクロ経済学のテキストなどでご存知の方もいるかもしれない。最近では中公新書で『人口と日本経済』が出ていて、それも自宅にあるので、『高度成長』や『経済成長の果実』とも結びつけながら読みたい。

*6:比例といっても良い。つまり片方が増えればもう片方も増え、片方が減ればもう片方も減るというような関係を指す。ここではたくさん笑えるものほど面白く、笑えないものほど面白くないということになる。

何のせいだと考えやすいか

 

 自分自身のことについてうまくいかないとき、その原因を考える。そのとき、自分にはどうにもできない要因(以下「要因A」とする)と、自分にはどうにかできる要因(以下「要因B」とする)の二つにわけることができる。それでは人は、どちらの種類の要因のせいだと考えやすいのだろう。おそらく人は一般に、自分の能力や権限ではどうにもできないもののせいだと判断しやすい心理的なバイアスがあるのではないかと直観的には思っている。

 おそらくここ2年くらいの間、責任ということに関して、そういうことを考え続けている。2年考え続けている割にはここへきていきなり文章を書いているので、随分まとまった内容になっているのかというと、残念ながらまだ十分にまとまっている感じはしない。けれども、ここで一旦文章にしてみようと思い、書き始めた。

心の中の綱引き

 どんな人にとっても、要因Aのせいにするのは魅力的に思える。何しろ自分の力ではどうしようもないのだから、それに対して自分は何も手を打たなくてよいということになる。それは言い換えれば、問題の責任は自分にはないと考えることでもある。「それでは人は」や「人は一般に」などと書いたこともあり、ここまでの論の流れでは希望がないのではないかと思われるかもしれないが、そういうわけでもない。実際にはどんな個人も、ある問題の原因について考えるとき、自動的あるいは反射的に要因Aを選ぶというわけではなくて、頭の中では要因Aと要因Bのどちらを追求するかというある種の綱引きが起こっているのではないか。そしてその綱引きでは、放っておけば要因Aが勝ちやすいというのが、偽らざる人間の姿ということなのではないかということが、さしあたってここでの仮説である。では要因Bの方が勝つように手を貸せばいいのかというと、ことはそう単純でもない。

 例えばこういう問題を考える。引っ越してからというもの、どうも気分がふさぎがちな日が続いており、どうにもこの状態から抜け出せる気がしない。これは一体何が原因なのだろうか。人と会う回数が減ったから、まともな食事が摂れていないから、会社でうまくいっていないから、恋人がいないから、お金がないから、将来が不安だから、などなど、考えれば次々といかにも当てはまりそうな原因の候補が浮かんでくる。もしかしたらこの中のどれか一つでなく、複数の原因が複合的に作用しているということもあるかもしれない。

 ところがここである本を偶然読む。それは脳科学を扱った一般向けの本で、その中にセロトニンの分泌が活発になる条件について書かれた項目があった。曰く、朝日光を浴びるとセロトニンの分泌が活性化される…。ここで彼は一旦本を読むのをやめ、考え始める。そういえば引っ越してからというもの、自分が朝に日光を浴びなくなったことに思い至る。その原因を考えると、周囲がビルに囲まれており、たとえカーテンを開けていようとも、自分の部屋には朝の時間帯に日光が差し込むことはないのだと知る…。

 この例では、自分にはどうにもできない要因である「家の周囲の環境」が問題の原因であると考えることができる。もちろんそれに対して、お金にゆとりがあるなら日照条件のよい別の家に引っ越すなどの対応を考えることができるかもしれないが、もしもお金にゆとりがないなら、当面は自分にはどうしようもないと思い、諦めるのが得策だろう。だからこの場合には、自分の責任を感じずに済む要因に問題の原因を帰そうとするバイアスの負の影響は問題にならない。そこに心理的なバイアスがはたらいていようとも、正しい原因(家の周囲の環境)を特定できたのであれば、それで問題ないのだ。とすれば本当に考えるべきは、正しい原因が自分に責任のある要因である場合に、心理的なバイアスが原因で、自分には責任のない要因が原因だと判断してしまうことをいかにして防ぐかということになる。先ほどの比喩を使っていえば、綱引きを公平なものにするにはどうすればいいかということでもある。

個人の綱引きと集団の綱引き

 この綱引きは、一人の個人の心の中だけで完結している場合もあれば、複数の人間の間で影響しあうような場合もあるだろう。先ほど取り上げた例の場合は純粋に個人的な綱引きということになるが、では集団の場合というのはどうか。

 今回は女性の設定で例を考えてみる。大学を卒業して数年が経った頃、高校までの友人はすでに何人も結婚し、大学時代の友人の中からも結婚する友人が相次ぐようになった。高校までの友人たちが20や21などの年齢で結婚したときには、「そんなにすぐに結婚してもしょうがない」とか「自分は就職してある程度は働いてから結婚するのが希望だから」などと自分を納得させ、それほど動じることもなかった。大丈夫。今は就職活動に専念するのだ、と。

 しかしその後、就職して5年が経過し、大学時代の友人たちも続々と結婚していくにつれ、少しずつ焦りを感じ始める。以前はちっともリアリティを感じなかったアラサーに突入し、あと少しで30を迎えてしまう。26までに結婚するつもりでいたのに、気付けばもう27…。来月には28になってしまう。他の人たちはどんどん結婚していくのに、どうして自分は今も結婚できないままなのか。それどころか、彼氏すらできないのは何故なのか。すでに結婚したあの子やあの子と、自分がそれほど大きく違っているとは思えない。いやむしろ、自分の方が料理だってできるし、おしゃれにも気を使っているし、かといって相手を疲れさせるような「お高く止まった高嶺の花」にもならないようバランスを取ってもいるつもりだ。それなのに一体どうして…。

 この例では、女性は他の友人たちとの比較において自分の問題の原因を考えているため、純粋に個人的な綱引きでなく、集団的な状況の中で生じる綱引きといえるのではないかと思う。こういう場合にも、友人たちの結婚が続くにつれて精神的な疲労を募らせ、冷静な判断を下しにくくなり、ともすると「自分の家系は結婚できない家系なのではないか、考えてみれば私の両親も、父方母方のおじさんやおばさんも、結婚は早くなかった。何かそういう遺伝子が私にも受け継がれていて、私が結婚できないでいるのもそのせいなのではないか…」などと考えたりする。遺伝子のせいならば、自分にはどうにもできない*1から、手っ取り早くそのせいにして「すぐには結婚できない悲しい運命の下にある悲劇のヒロイン、それは私」を演じたりすれば、多少は気分も紛れるかもしれない。いや、さすがにこれは言い過ぎだろうか。

 けれどもこの女性が結婚できないでいるのは、単にメガネのセンスが悪く、服やカバンのセンスは問題ないのにメガネが全てを台無しにしてしまっているということに気付いていないだけかもしれない。そして想像力をあらぬ方向へたくましくして、全く見当違いな理由をでっち上げてそれに浸ってしまっている、と。

では結局どう考えれば綱引きは公平になるというのか

 純粋に一個人の中だけで完結する場合にせよ、他者との関わりの中で影響を受ける場合にせよ、心の中で二つの要因のどちらが真の要因であるかということを公平に判断するためには、少なくとも現時点での私は次の二つの対処法を考えている。つまり情報を集めること、それもネット上の噂といったものではなく、専門的な情報を集めてよくそれを頭の中で整理し体系化していくこと。そしてもう一つ、それはどんな場合にも「自分には、全てではないにしてもいくらかの責任があるかもしれない」ということを素直に引き受けて考えるようにすること。この二つである。たとえ真の原因が、自分の力を超えたところにあると後にわかるような場合であっても、自分にはこういう責任があるかもしれず、したがってそれに対して何か打てる手があるかもしれないという風に考えることができるか否か。一つ目の対処法は、バイアスに関わりなく正しい原因を突き止めるという意味で必要なことであると思う。そして二つ目の対処法は、バイアスがあるかもしれないということを認め、その逆側を初めから意識するようにするという、いわばバイアスを逆手に取る考え方である。

 これだけ書いておきながら、私は「でもそもそもそんな心理的なバイアスは実はないかもしれない」と思っているところもある。何しろ科学的な根拠をまだ見つけていないのだから、結論を下すには情報不足だ。つまりこの問題自体が、何らかの心理的なバイアスの存在によって結論を誤る可能性が含まれているという危険性を私は抱いている。だから、もしバイアスなどなかった場合には、上の2つのうちの1つ目の対処法だけを実行すればよいことになる。つまり1つ目の対処法は、どちらに転んでも損はしないという、ある種の保険のようなものだ。しかしその一方で、自分には何の手も打てないと考えるのもなんだか悔しいという思いもある。だからどんな問題を考えるときにも、自分には打てる手が何かあるのではないか、裏返していえば自分には何らかの責任があるのではないかと考えるような思考の習慣をつけておきたいという思いもある。その意味で2つの対処法は私の中で、アンビバレントな関係にある。

 

 

エピジェネティクス――新しい生命像をえがく (岩波新書)
 
双子の遺伝子――「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける

双子の遺伝子――「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける

 
日本人の9割が知らない遺伝の真実 (SB新書)

日本人の9割が知らない遺伝の真実 (SB新書)

 

 

 

 

 

 

*1:少し前までは、遺伝子のせいにするのは責任から逃げたい人の常套手段として使われていた節があったが、近頃ではエピジェネティクスの研究が一般にも広く紹介されるようになり、環境の変化によって特定の遺伝子の発現のしやすさが変わってくるということがわかっている。そういうきっかけを作った本として、たとえば仲野徹の『エピジェネティクス』やティム・スペクターの『双子の遺伝子』、もっと最近の本だと行動遺伝学を扱った安藤寿康の『日本人の9割が知らない遺伝の真実』や、ストレートなタイトルの本としてシャロン・モレアムの『遺伝子は、変えられる』などもある。エピジェネティックな変化の存在を指摘する研究が増えているので、「遺伝子は生まれる前から決まっているのだから、生まれたあとでどうこうしたところで無駄」という考え方は妥当ともいえなくなってきている。もっとも、エピジェネティクスについて知らない人間ばかりの環境では、誰からも指摘がないために、あいも変わらず遺伝子のせいにして責任逃れをしたがる人間が残りやすいということはあるだろう。そして全ての遺伝子が環境によって変えられるわけでもない。たとえば髪の色などはどんなに環境を変えても黒から金に変わったりはしない。

植物の生と動物の生

 『置かれた場所で咲きなさい』という本がある。渡辺和子さんというカトリックの修道女の方が書かれた本で、2012年に単行本が発売されて以来、はじめはそれほどでもなかったように思うが、去年などもけっこう話題になり、文庫化もされ、今や200万部を超えるミリオンセラーである。多くの本*1が一年以内に書店から姿を消す昨今の出版状況においては、数年以上書店に置かれ続けているのだからもはや「ロングセラー」とも言える。

 初めに断っておくと、私は著者の渡辺さんに何か不満があるわけではない。昨年末に帰らぬ人となった著者に対して、もはや私の賛辞も不満も届かなくなってしまったけれども、私は今もなお、どうしてもこの本に対して得心がいかない。それだけのことである。

 私がこの本を初めて目にしたのは、ほぼ毎日のように書店に足を運ぶ習慣があることから考えると、出版されて間もない2012年の頃だったろうと思う。まだ内容を読まないうちから「今いる場所でがんばりなさいという内容なのだろうな」と思っていた。そして私はその頃から、なんとなくこの本に言い知れぬ違和感というか、もう少し別の言い方をすれば拒否感のようなものすら抱いていた。冗談じゃない、と。

 しかしその後、この本は世間で話題になり、あれよあれよという間にベストセラーになってしまった。おいおい勘弁してくれよと私は思った。しかしその頃もなお、私は自分がどうしてこれほど違和感なり拒否感なりをこの本に対して抱いたのか、いや今も抱き続けているのかということがはっきり言葉で表現できないままだった。そこで私はこの本をひとまず一度は読んでみようと思うに至った。

 そして読み終えて率直に思ったことは、私が当初思った通りのこと、つまり「今あなたが置かれた場所で頑張ることに価値があるのだ。だからがんばりなさい」ということが書かれているにすぎないということだった。本を読むとき、その感想は先入観に左右されることがある。もしかしたら今回の私もそうであったかもしれない。読む前から「どうせこんな内容であろう」と半ば侮ったような、そういう思いがあったことは確かだ。しかしその一方で、この本を初めて読むにあたって、先入観に左右されず虚心坦懐に読み解きたいという思いもあり、なるべく本文に忠実に読もうと努めもした。けれども、やはり私の読後の感想は上のようなものに留まった。

 時間が経つにしたがって、私の中で考えがはっきりしてきた。その核になる部分だけを先取りすると、つまり私はこの本が、動物としてのヒトの生を植物としての生になぞらえた部分に反発心を抱いたのだ。この点を詳しく述べるには、二本の補助線を引かねばならない。

 『植物は〈知性〉をもっている』という本がある。この本もそれなりに売れているのか、重刷がかかり続けているようで、今も書店の本棚で何冊も横に並べて置かれているのを目にする。植物にも植物なりの「感覚器官」があり、それはこの本の副題である「20の感覚で思考する生命システム」からも知れる通り、ある意味では人間の五感よりも多く、様々なチャネルを通じて外界の変化を感じ取り、それに応じていわば戦略的*2に行動している例が数多く紹介されている。

 私はもちろん動物である。そこである意味では私と異なる存在である植物について、「植物なりの生とはいかなるものであるか」ということに関心を覚え、この本を購入して読んだ。動物と植物の違いは体の構造やDNAの中身など色々あるが、一つは動けるかどうかという点にある。動物は移動して住む場所を変えることができるが、植物はそうはいかない。芽を出して成長し、花や果実をつけるのは「その場」においてである。そういう条件のもとで生きなければならないということには長所も短所もあり、個々の植物は短所を補い、長所をいかすような工夫をして生きている。そこには植物なりの尊厳があるし、それに対して私は敬意を払いさえする*3

 しかし、そういう動かぬ賢者たる植物たちに相応の敬意を払うことと、その生き方の条件を真似ることとは同じではない。 動物として生まれたのであれば、動物としての生の条件を引き受けることを考えるべきだと感じる。そこにはもちろん植物の生との共通点もいくらか見つかるだろうが、植物の生を真似ることとはやはり明確に異なる。置かれた場所で咲くということは、私が植物であったなら、逃れ難い運命として受け入れるほかなかっただろう。それは私の生の根本的な一条件であって、二本なり四本なりの脚であちらこちらを走り、自らの意思によって環境を変えるということは諦めなければならなかっただろう。ところが実際には、私は動物として誕生し、動いて場所を変えることができる。これが補助線の一本目である。

 場所を変えるということを最も端的に示す私自身の例は、大学進学とともに19年間生活した福岡の北九州を離れて上京したことである。私は地元に自分の居場所を感じ取ることができなかった。仲のいい友人はいたし、美味しい食べ物もテレビもあり(上京前、私はそれなりのテレビっ子であった)、そこで満足に暮らしていく人間に対して軽蔑するというようなこともなかった。けれども「自分はここで暮らし続けたくはない」という思いはずっとあったし、上京してきて色々嫌なことも経験した後でも、地元に帰って地元で暮らそうとは思わなかった。そういう人間は大学にも少なからずいたし、彼ら彼女らは自分と同様に、東京での就職と東京での生活を望んだ。それが叶った者は残念ながら少なく、卒業と同時に地元へ帰っていった者や、一旦や東京で就職したものの、地方に転勤になって数年間その土地で生活し、その後関東の地元へ戻ってきてそこで勤務という者が多かった。だから、少なくとも統計的には、多くの人間は地元という置かれた場所で咲くことを求められる状況にあると言えるのかもしれない。それならばもういっそ、植物のように、今自分が置かれたその場で、自分の意思で移動して環境を変えることなど望まず、まずはその場で懸命に努力して花を咲かせることが正解なのではないか、そう訴えかけてくるような感覚を、私は『置かれた場所で咲きなさい』に対して抱きさえした。そしておそらくはそういうことを渡辺さんは書こうとしたのではないかとも思っている。これが補助線の二本目である。

 

 今の私もまた、上に述べた多くの者たちと同様に、地元へ戻される圧力の中にある。東京での就職を望みながらもそれがうまくいかず、遅かれ早かれ地元に戻ることになるのなら、もういっそ東京での就職活動など切り上げて、早々に帰ってきたらどうかというところだろうか。置かれた場所で咲きなさいという声が聞こえてくる。

 冗談じゃない。

 たとえ統計的には置かれた場所で咲くことを求められているのが今の日本の現実であるのだとしても、私は初めから場所を移動することを諦めて植物の生を選ぶなど耐えられない。動物らしく動き回り、「他人や環境のせいにするな」というもっともらしい自己啓発由来のお題目にも流されず、冷静に考えて環境が悪いと思えば環境を変える。『置かれた場所で咲きなさい』は、渡辺さんが老齢に達した後に書かれた本であり、いわば老いによる疲れが、動き回ることとの距離と困難とを生み、その困難さの感覚は一定の諦念すら生み、その全てがこの本には混じっているのではないかと私には思われた。これは本筋を外れた私見に過ぎないが、歳をとることによる諦念は色々な形で表出し、「経済成長を諦める」ということを年老いた人々が説くのを見るときにも、私は渡辺さんに感じ取ったのと同じ類の諦念を見る思いがする。

 私にはまだ動かせる足があるし、その意思もある。『置かれた場所で咲きなさい』に苛立ち続けるだけでは、私もいずれ、置かれた場所で咲くという生のあり方を受け入れざるを得ないところへ追い込まれるだろう。私の意思と私の足が、その苛立ちを上回れば、私は植物には不可能な戦略によって私の生を全うすることができるかもしれない。

置かれた場所で咲きなさい

置かれた場所で咲きなさい

 
リケイ文芸同盟 (幻冬舎文庫)

リケイ文芸同盟 (幻冬舎文庫)

 
植物は〈知性〉をもっている 20の感覚で思考する生命システム

植物は〈知性〉をもっている 20の感覚で思考する生命システム

 

 

*1:そういえば最近読んだ『リケイ文芸同盟』という小説の中で、日本に1年間で生まれる本の数が78000冊という記述があった。

*2:「いわば」などともって回った書き方をしてのには理由があって、ここ数年「植物戦略本」とでもいうようなジャンルができつつあり、それらは一様に「植物たちはこれこれこういう戦略をとって生きている。我々人間もそこから学べることは少なくないのではないか」ということが主要なメッセージになっている。『植物はそこまで知っている』『植物の体の中ではなにが起こっているのか』『植物の形には意味がある』『たたかう植物』『植物のあっぱれな生き方』などなど、現時点でもその数はそれなりの数に及ぶ。攻殻機動隊の好きな人はアーサー・ケストラーの『機械の中の幽霊』を翻訳したことでご存知の日高敏隆も、植物の戦略について平易なエッセイを書いており、私は以前の職場であった塾で、小学六年生向けの国語のテキストの中でそのエッセイを目にした。こういうところにまで植物の戦略ブームは及んでいるのかと思ったことを今でも鮮明に覚えている。

*3:この本の中でも、2008年にスイスで植物の尊厳を守る団体が設立されたことが書かれていて、リーマンショックとそれに付随する形で引き起こされた金融危機に世間が湧いていたのと同じ年に、こういうことも起こっていたのかと印象的であった。

インフレターゲットと弾力性について

 

 「弾力性」への導入

 先日インフレターゲットの効果に対する懐疑を示す記事を書いた。

plousia-philodoxee.hatenablog.com

 この記事は4月20日に書いたあとに一旦下書きとして保存し、今日になって色々手を加えて公開したもので、公開した後になって「弾力性」(elasticity) の概念と結びつけて具体的な計算をしてみると、話がわかりやすくなるのではないかと思い、この記事を書き始めた。

 経済学では「弾力性」という概念がある。一般に「AのB弾力性」といえば、Bの変化によってAがどれくらい変化するかということを表す。たとえばミクロ経済学のテキストでは必ず紹介される「需要の所得弾力性」であれば、所得が増えると需要がどれくらい増えるかということを表す。

 それでは「消費の予想インフレ率弾力性」はどうか。予想インフレ率(インフレ率の期待値)が変化すると消費はどれくらい変化するのかを表す値ということになるが、これは消費者の所得水準によって値が異なるのではないか。つまり低所得の消費者は弾力的であり、高所得の消費者は弾力的でないのではないか。弾力性の概念を正確に定義するためには偏微分の知識が必要になるが、ここでは小学生レベルの算数しか使わない。

単純なケースで弾力性の効果を考える

 ここで消費者が10人という小規模の経済を考える。この経済の中で7人は平均年収400万円の低所得(Con[low]で表す)であり、3人は平均年収2000万円の高所得(Con[high]で表す)であるとする。所得格差はそれほど大きくないところが日本らしいといえる。これがアメリカであれば、もっと格差は大きい。所得はいずれも税引後の金額であるとする。さてこの国の中央銀行がインフレ率のターゲッティングを宣言し、予想インフレ率が1%上昇したとする。このとき、以下の2つのケースでこの政策がどれくらい効果を発揮し、その程度はどれくらい異なるかということを示す。

【ケース1:弾力性が消費者によって異なる場合】

Con[low]はこの変化に敏感に反応し、消費額が3%増加する。一方でCon[high]はそれほど敏感に反応せず、消費額は1%しか増加しないとする。

 さてこの国全体で消費はいくら増えるだろうか。つまりインフレターゲットはどれくらいの効果を発揮するだろうか。

Con[low]:400万円×0.03×7=84万円

Con[high]:2000万円×0.01×3=60万円

合計:84万円+60万円=144万円

この経済の規模はもともと400万円×7+2000万円×3=6280万円だからインフレターゲットによる消費拡大は144÷6280≒0.023つまり2.3%に留まることになる。全く効果がないとは言わないが、これで経済が上向くとはいえないし、根本的な解決とも言い難い。 日本を想定して考えたが、日本よりも格差の大きいアメリカではどうであろうかと思ってしまう。

【ケース2:弾力性が全ての消費者で同じである場合】 

ケース1では消費者の所得水準によって弾力性の値が異なるという仮定に基づいて計算したが、仮に10人がみな同じ弾力性の値、たとえば予想インフレ率1%の上昇に対して消費額が2%をもつと考えた場合はどうなるか。

Con[low]:400万円×0.02×7=56万円

Con[high]:2000万円×0.02×3=120万円

合計:176万円

となり、ケース1よりも大きな効果を発揮することがわかる。政府や中央銀行がどちらのケースを想定しているのかはわからないが、実際にはケース1のような状況であるにも関わらず、ケース2のような楽観的な想定をしているとすれば、これは見直しが必要ではないかと思う。

技術革新とマイナス金利

 もちろん、技術革新によってあらゆる財*1の価格が低下し、所得水準は一定でも購買力が増加するというのであれば、別に構わない。年収400万円のままでも、家が500万円で買え、新車が20万円で買え、海外旅行に1万円で行けるなら人々は満足に暮らしていけるだろう。しかし技術革新は短期では起こらない。たとえば銀行を介して融資へ回された富裕層の預金が企業の技術革新の原資になるとしても、身を結ぶまでは苦しい生活が続くのでは、人々の不満は消えない。

 また技術革新は財の価格を押し下げる圧力、つまりデフレ圧力としてはたらくので、物価の持続的な上昇としてのインフレを狙う現行の政策とは整合的でない。この点をもう少し詳しく述べる。技術革新のためには投資が必要であり、その投資は人々の貯蓄を原資とする。所得は消費か貯蓄に振り分けられるため、インフレ圧力によって消費が喚起されている状況では、人々は自らが得た所得を貯蓄でなく消費へ、より多く配分するようになる。そのため投資が十分な水準に保たれず、技術革新が起こりにくくなる。反対に技術革新のために投資を重視するのであれば、人々が消費よりも貯蓄へ所得を配分するような条件が求められる。これはデフレ圧力であって、インフレターゲットの環境では実現しにくい。

 ここでマイナス金利ということが問題になる。マイナス金利の環境では、銀行は国債でなく企業への融資を促される。これは投資の増加を通じて技術革新を起こしやすい環境を生み出すと考えられる。けれども実際には、技術革新によって人々の購買力が増加するということを期待できない。家も車も旅行も高いままだし、子どもを産んで育てていこうにも大学まで想定すると教育費は負担できるか不安である。マイナス金利は銀行融資を通じた技術革新によって消費者の購買力増加というかたちで効果をもつならばいいが、素朴な生活実感に照らして考えるとそういう効果があるとは思えない。

まとめ

  ここまでの話をまとめよう。消費者の所得水準が一定であっても、技術革新によって購買力が増加するならばいいが、そうはならないと考えられる場合、少なくとも短期では経済全体で消費の額が増え、ある個人の消費が別の個人の所得へというかたちで貨幣が流通していくことが望まれる。しかし2つのケースに分けて考えた通り、所得水準によって消費の弾力性が異なり、高所得者の弾力性の値が小さいような場合には、インフレターゲットの効果はかなり限定的なものに留まることになることが確認された。

 したがって、それでもなおインフレターゲットにこだわるのであれば、高所得者の弾力性の値を上昇させるようななんらかの「テコ入れ」が必要になるだろう。けれどもそれは「あなたはお金持ちなんだからもっとものを買ってください」という特定の選択を強要することになるため、「そんなの私の自由でしょ。私は清貧を是としているんです」などと言われればおわりかもしれない。一体どこに希望を持てばいいのだろう。

*1:ここで「ある財」ではなく「あらゆる財」と書いたことには当然理由があって、ある特定の財の価格が低下しただけでは、他の財からその財へ消費が移るだけの話で、購買力はそれほど変化しない。今まではうまい棒が10円、カルビーのポテトチップスが150円だったから、うまい棒を好んで買っていたが、技術革新によってカルビーのポテトチップスが50円まで値下げされたら、うまい棒を買っていた人々もカルビーのポテトチップスを買うようになるだろうが、それは購買力の増加としては大したものではない。しかしあらゆる財の価格が低下したら、うまい棒カルビーのポテトチップスもこれまでよりたくさん買えるようになる。これは購買力の増加によって生活が豊かになったと感じるには十分であろう。

働き方改革もインフレターゲットもマイナス金利も意味ないんじゃないか

と思っている。問題はむしろ一部の人間がもっている莫大な資産*1が消費でなく銀行預金に回され、しかし預金に回されたところで消費の当てがなければその預金が融資につながることもなく、それでも銀行はやっていかなければならないので日本やアメリカの国債を買うくらいしかなくなっている。日本やアメリカの国債を買ってそれぞれの政府の財政を維持なり改善なりしたところで、消費が増えなければ意味がない。

 ではどうするか。政府による再配分、あるいはせめて、一部の裕福な人間たちにもっと消費してもらうしかない。それはもう、とんでもなく豪勢に使ってもらうしかない。そうでないとお金が回っていかない。貨幣の流動性はいつまでも低いままだ。不動産は文字通り不動の資産になってしまっている。マイホーム幻想は広がるばかりだ。

 大学にいた頃、マクロ経済学の授業では経済を短期と長期で分けて考え、短期では需要(消費)が、長期では供給(投資)がそれぞれ重要であるということを教わった。「供給はそれ自体が需要を作り出す」というセイ法則は長期に当てはまる法則として説明される。古典派もそれを数学的により精緻に体系化した新古典派も、基本的には長期を軸に経済の変動を考えている。これに対して、公共事業の拡大やそのための増税の正当化に用いられるケインズ主義は短期を軸に考えている。

 そして消費を喚起するためにインフレ率を操作するインフレターゲットは、消費をするための原資を持つ消費者が十分な数いれば成り立つが、給料が上がる前に消費を喚起されても消費は伸びない。大多数の人間は消費しようにもそんな余分などそもそも持ち合わせてはいない。そんな余分があるごく一部の人間が消費しなければ意味がない。そしてそういう消費のゆとりがない人間の残業がなくなったりインフレになったりすることが、消費を一気に増やす効果をもつとも思えない。

 あるい銀行にマイナス金利を設定してもっと積極的な融資を促したところで意味はない。買いたくても買えない人だらけなのだ。家も車も、旅行も、もっと小規模の色々なものですら。家なら豪邸を10軒以上、車なら100台以上買え、旅行も一生できるような資産をもっているごく一部の人間が、当然家は多くても数軒、車も多くて数台、旅行も年に何度かというくらいしか行かず、余ったお金はどうするかと言えば、当然預金だ。その預金は銀行で融資のための原資になるが、融資先がない。

 高級外車を何台も買ったり、豪邸をいくつも買ったりする成金的な富豪が非難されたりするが、私はむしろそういう人たちはどんどん消費した方がましだと思う。高級外車にしろ豪邸にしろ、消費をすればそれは別の誰かの所得になるのだから。逆に「清貧」を気取ってお金を使わない富豪の方が、哲学としては立派かもしれないが、それが経済にもたらす負の効果を考えると、思慮が浅いのではないかと思ってしまう。グッチやプラダを着ている富豪よりも、ユニクロを着てあとは貯金という富豪の方が、マクロ経済に与える負の効果は大きいのではないか。あるいは別の言い方をすれば、言動が鼻につく若いIT企業社長よりも清貧を説く中高年の大企業社長の方が、困った存在なのではないか。 

 再配分という意味では企業の内部留保を減らして労働者にもっと給料を与えるというのも手だと思う。これは時々目にするが、企業の内部留保が多いのは不景気の原因ではない。むしろ結果なのだという論もあって本当に厄介だと思う。因果関係は逆で、消費の原資として賃金が労働者に配分されないから消費が増加しないままになり、その結果として不景気になるという順序だ。莫大な資産を持っている人間に消費してもらうなり課税を通じた再配分なりを考えた方が効果は大きいと思うが、実現のハードルを考えると企業の内部留保を取り崩すということを何らかの政策を通じて促す方が手をつけやすいかもしれない。

 あるいは富裕層の預金が銀行を通じて別の企業への投資へ回り、その投資はその企業の労働者への賃金として分配されていけば、有効需要は増えるので経済へよい効果を与えるだろう。しかしいくら投資がなされてもそれが人へ配分されなければ、少なくとも短期では意味がない。その意味では、投資一般が悪であるというのではなく、賃金上昇を通じて有効需要を増加させないようなタイプの投資はよくないということになる。

  こういう構造を変えることは難しいから、他の方法として働き方改革なりインフレターゲットなりマイナス金利なりに手をつけているということだと思うが、それらでは構造を変えるほどの効果はないのではないかと私は思う。

 お金持ちが消費せずに投資ばかりするようになった経済は回らない。そういう意味では日本に限らずアメリカも同じではないか。

*1:「一部の富裕層が」ということが話題になると「でも日本は富裕層だと収入の半分は税金で持っていかれるじゃん」ということが指摘されるのを目にするが、半分持っていかれてもなお手元に残る金額が膨大だったらどうなのだろう。日本人はアメリカほど派手にお金を使わないことがまるで美徳のように言われることもあるが、結果論からいえば富裕層はむしろ派手に使った方が経済全体のためではないか。

情報の系列化

 少し以前のできごとになるが2月の上旬にこんなニュースがあった。18歳のアイドルである松野莉奈さんが急死し、その死因について、事務所の正式な発表がなされる前から「ウイルス性の脳症が原因では?」というデマの情報がTwitterなどで拡散したというものだ。*1

 起こったことを時系列に沿って並べると以下のようになる。

 

2月8日 松野さん急死

2月9日 ウイルス性の脳症が原因ではというデマ情報が拡散

2月10日 松野さんの所属事務所が死因(致死性不整脈)を公表。

 

 9日の時点の情報だけに接した人間は、そこで一気にウイルス性の脳症について調べ、その影響はTwitterのツイート検索でも当時は検索候補の上位に「ウイルス性 脳症」という言葉が表示されていたことに現れていた。10日の事務所発表によって、ウイルス性の脳症が死因とする情報はデマだったことがはっきりしたが、それまではデマと気付かずにその情報を信じた人も少なくなかったのではないか。当時、Twitterでは「ウイルス性の脳症」というツイートをたくさん見かけた。ほんの数日待つだけで、調べるべき単語は「ウイルス性脳症」から「致死性不整脈」へと変わっただろう。ツイート検索の候補もそれに応じて変化しただろう。

 芸能人の死という問題に限って言えば、「所属事務所の公式発表を待つ」というのを基本姿勢にしていれば、デマに振り回せれずに済んだという考え方もできる*2が、一般にこういう医学関係のニュース、あるいはさらに一般に専門知が関わるニュースでは、私自身も含めて大多数の人は専門的な知識を持たないため、情報の真偽を自分の力で評価することができない。少し前に問題になったDeNA運営のWELQでも状況は同様であったし、医学以外の領域、例えば原発事故や食品の安全性、STAP細胞地球温暖化、最近では森友学園に関する大阪での国有地払い下げ問題など、専門知が問われるニュースというのは短期では意見が割れやすく、長い時間をかけてコンセンサスが形成されていくものだ。しかしコンセンサスができる前にはもう別のセンセーショナルなニュースが現れて、短期間でなされた評価が消費されて終わる。そして多くの門外漢の人間は「結局どれが正しいの?」ということを判断できず、誰の情報、或いはどこの情報を信じればいいのかということがわからなくなりやすい。人々が社会で起こる問題について参照するメディアが、全体として「短期」に引っ張られ過ぎていて、もう少し時間をかけてまとめられた意見がメディアの中で見かけなくなった。本は別だが。

 「誰が言うかよりも何を言うかの方が重要である」というのが私の個人的な考え方であって、これについては以前にも記事を書いたことがあった。これに関連して最近こんな記事を読んだ。

gigazine.net

 「誰がシェアしたか」を基準にするのは、ある意味では妥当と言える。自分の専門外の問題について理解を深めるために、その分野について自分よりも詳しそうな人間の見識に頼るのは妥当であるし、たとえば教育というのも自分よりも詳しい人間から学ぶ機会を与えるということを前提に設計されている。教育的効果という意味では、「誰がシェアしたか」基準は非専門家の人間に専門家の視点を紹介し、専門知に触れる機会を与えるという意味で意義がある。私がそれでも「何を言うか」の方を重視するのは、専門知は自分で学べばよく、一旦学べば誰が言うかよりも何を言うかで言論の内容を評価できるようになると考えているからだ。

 しかし一方で、世間で起こる問題について人々が意見を参考にする人間がその問題についての専門家であるかというと、いつもそうとは限らない。いや、むしろ「著名人」ではあっても専門家ではない人間の意見が参照されていることも少なくない。起業家が原発問題についてツイートしていたとして、いくらその起業家が大きなお金を動かしているとしても、原発についての専門知を持っていなければ「誰が言うか」に引っ張られるべきではない。これについて、ショーペンハウエルの『読書について』から引用する。

 作品は著者の精神のエキスである。したがって作品は、著者がいかに偉大な人物であっても、その身辺事情に比べて、常に比較にならぬほど豊かな内容を備えており、本来その不足をも補うものであるはずである。だがそれだけではない。作品は身辺事情をはるかに凌ぎ、圧倒する。普通の人間の書いたものでも、結構読む価値があり、おもしろくてためになるという場合もある。まさしくそれが彼のエキスであり、彼の全思索、全研究の結果実ったものであるからである。だがこれに反して、彼の身辺事情は我々に何の興味も与えることができないのである。したがってその人の身辺事情に満足しないようなばあいでも、その人の著書は読むことができるし、さらにまた、精神的教養が高まれば、ほとんどただ著書にだけ楽しみを見いだし、もはや著者には興味をおぼえないという高度な水準に、しだいに近づくこともできる。(ショーペンハウエル『読書について』(岩波文庫)p.138, 139)

 私が個人的に好きな映画の一つに『グッド・ウィル・ハンティング』がある。その後半部分で、主人公のウィルは数学の証明の問題を解くためにマクローリンの公式を使うのだが、それが誰の公式かということはちっとも気にしていない。これも「誰が言うかより何を言うか」の一例と言えるのではないか。映画のスクリプトの一部が載っているサイトを見つけたので引用する。

トム:教師が天分を見抜けないので自分はバカだと思い込む優秀な学生が多い。その点君は幸せだ。ランボー先生は君を認め手を差しのべてる。
ランボー:やあ、ウィル。トム、コーヒーを。
トム:いいとも。
ランボー:解けたか?いいぞ。正しい証明だ。マクローリンの公式か。誰の公式だか…こうなるのか。私が間違いを?
ウィル:それが正解です。次からはショーンの所で。ここはバイト先が遠くて…
ランボー:いいよ。この計算は…
ウィル:計算は合ってます。ゆっくり確認を…
そしてウィルは去る。

(表記を一部修正の上、以下のサイトから引用

http://www.oocities.org/take12take/zeminar1.htm

 

 SNSでは、情報は早くシェアされやすいという速報性のバイアスがかかっている。数日、あるいは数週間、あるいは数ヶ月に渡って時間をかけて調べた結果をまとめた投稿などは、SNSで見た試しがない。4月7日に発表されたニュースは数時間以内、あるいは遅くとも翌日か数日以内にはシェアされてしまう。そこには複数の情報を連ねた系列が存在しない。 他の情報との間の連関が見えない。「情報の断片化」というのは、SNSの登場以前から、ネット上にある情報の特徴としてしばしば指摘されてきた特質であったから、その意味では今更という感じもするが、それだけ指摘されてきたにもかかわらず、ネット上の情報も、そしてSNS上の情報もちっとも系列化されていないのは何故なのかということついては、今更ではあれ考える意義はあると思う。

 もちろんあるサイトの内側で、同一執筆者の記事が連載記事としてまとめて読めたり、ある記事の途中や下に関連記事として同一イシューの記事が紹介されているということはある。けれども他サイトの記事は利害関係に引きずられて紹介されていない。プラットフォームのYahoo!のニュースやLINEニュース、NAVERまとめなど、複数のソースの記事が関連記事として紹介されているページもあるが、そこでは同じ日付の記事どうしが横並び的に参照されていたり、あるいはラグがあってもせいぜい数日か数週間というくらいの時間の幅しかなく、問題の背後にある構造を照らし出すのに必要な時間の幅として十分とは思えない。個々のサービスとそれが提供するコンテンツの時間的な幅の関係については、以前からいくつかの記事を書いた。

[1] 情報と時間 - ありそうでないもの

[2] ランキングと記憶と銀行について - ありそうでないもの

[3] RSSでもキュレーションでもGoogleでもSNSでもなく、欲しい情報をどうやって得るのか - ありそうでないもの

 キュレーションサイトやニュースサイトはそもそもそういう目的で作られたものではないといえばそれまでかもしれないが、では他にそういう目的を持って機能しているサイトなりサービスが大きな規模で展開されているかいえば、今は単行本くらいしかないように思える。新書や文庫本では紙幅の都合などで付いていないこともあるが、巻末の索引や参考文献のページを見ると、2017年の問題を論じる本であっても1990年代や2000年代、あるいはもっと以前の本や記事や論文が参照されながら論が展開されていることが確認できる。TwitterFacebookで、そういう時間の幅をもったツイートや投稿を見かけることはほとんどない。ほとんどのツイートは、今この瞬間の反応の速さを競うようなものばかりで、「自分の方が早くから知ってた」というアピール合戦に終始しているような印象すら受ける。そこでは「真実が何か」ということよりも、「今この瞬間にインパクトのある素材かどうか」という、昨今しばしば指摘される「ポスト真実」(post-truth)の状況が展開している。

 デマかどうかを確かめることやファクトチェックについては、Facebookも対応を取るようになったし、他の様々なサービスでも真実かどうかを確かめることに重きを置く風潮は生まれてきている。WELQの問題もそういう風潮を後押しするのに一定の貢献をしたというポジティブな評価を与えることもできないではない。けれどもこの問題について、ここまでの趣旨に即して考えるならば、情報をある程度の時間の幅を持って系列化し、人々がその系列を容易に確認できるようにすること、そしてもちろんそれは情報を得る各人の興味関心に影響されてフィルターバブルの問題につながらないようにすることが必要ではないか。
 思えば検索エンジンGoogleは創業当初、他の多くのサイトからリンクされているサイトこそが、内容的に価値のあるサイトであるという考え方をベースにしてネット上のページをランクづけすることで、スパムに対して頑健なサービスを生み出したというところに意義があった。もっとも初期のGoogle検索エンジンアルゴリズムについて解説した『PageRankの数理』から引用する。

 HITSとPageRankとは,  地理的にも時間的にもそう違わないところで発見されたのだが,  独立に研究されたきたようにみえる.  この2つのモデルの間の関連は驚くべきものである([110]*3参照).  それにもかかわらず,  この多忙な年以来,  PageRankが主たるリンク解析モデルになったが,  それは,  クエリー独立性(3.3節参照),  スパムに対する事実上の免疫性,  およびGoogleのビジネスにおける巨大な成功によるものでもあった.

(第3章 人気度によってウェブページをランク付けする

    3.1 1998年の場面 p. 32, 33より太字筆者)

 それは学会の論文の相互参照のしくみにヒントを得て生まれたアイデアだったが、その後のネット上のサイトの群れを見ていると、検索エンジンアルゴリズムのアップデートの間で今もいたちごっこを続けているSEO対策を割り引いて考えても、学会の論文参照とはかけ離れたノイズばかりの世界になってしまった。検索者個々人に最適化した結果としてフィルターバブルの問題が指摘されたりもした。学会の論文についてもすでに頻繁に引用されている論文ほどさらに多くの参照をされやすいという歪みがあることは以前から指摘されているが、それにしてもネットほど酷くはない。

 それでは学会の論文参照と今のGoogleはどこがどう違っているのか。あるいは冒頭の問題意識に引きつけて言うならば、どうして他のどの領域よりも多くの情報がアーカイブされているこのネットという空間が、アーカイブという長期の情報が活用されず、短期のセンセーショナルな情報ばかりが消費される最大の消費地のようになり、新聞やテレビもその短期性に引きずられるというような状況になってしまったのか。

 学会の論文参照に相当するシステムをネット上で実現しようとするときにGoogle以外のやり方はないのか。アーカイブされた過去の情報がもっとうまく掘り起こされて有効活用される空間を作る方法はないのか。

 

ある、と思う。あとは「ではいかにして?」だけではないか。手がかりはある。図書館の本の並べ方について、ほとんどの人は文句も言わずに受け入れているのは何故なのか、ということだ。そこにはフィルターバブルなどない。そして個人への最適化もない。けれども人々は図書館へ足を運び、そこでそれまでは知らなかった本に出会う。恣意性のない並べ方をすれば、たとえ「自分個人向け」に最適化などされていなくても、人々は自然にそれを受け入れるのではないか。本の巻末の参考文献について文句をつける人がほとんどいないのも同じ理由ではないか。ではそれをネット上で実現するにはどうするかということだ。

 

*1:

matome.naver.jp

*2:芸能人の死とは異なるが、集団的自衛権をめぐる憲法改正に関する論議で生じる誤解についても、政府の公式発表を参照しないために誤解が輪をかけて拡散していくということがあるのではないかということを以下の動画を見て感じた。

www.youtube.com

*3:Amy N. Langvile and Carl D. Meyer. A survey of eigenvector methods of web information retrieval. The SIAM Review, 47(1):135-161, 2005