笑うことと面白いこと

 

 笑うかどうかと面白いかどうかは別のことだと私は考えている。理由はいたって単純で、笑っているが別に面白いとは感じていないとか、逆に笑ってはいないが面白いと感じていることがあるからだ。英語でいえばfunny(笑える)とinteresting(面白い)の違いといえる。これについて考えたことを、例を4つほど挙げて書いてみようと思う。

笑いはするが面白いとは感じないこと:アキラ100%PPAP

 去年流行ったものの中から例を挙げると、たとえば股間をお盆で隠しながら色々なことをして、観客をヒヤヒヤさせるという芸をする、アキラ100% *1という芸人がいる。和牛 *2という別のお笑いコンビのコントを色々見ていた私はたまたま関連動画の中で和牛とアキラ100%のコントを両方含むような動画を見てその存在を知った。アキラ100%のコントを見ていたとき、私は顔が笑っていた。それは何というか、ある種の条件反射のようなものなのではないかと思う。ある条件に置かれると私の口元は緩み、気付くと笑ってしまっているということなのではないか。そういう意味では、その時の私は単なるパブロフの犬と同じような存在だと言っていい。

 しかし、笑いはしたのだけれども、私はアキラ100%のいったい何が面白いのかということはわからなかったし、今もわからない。ネットでアキラ100%について論評している記事を目にして、実はこういう解釈ができるというのを読んだときも、一理はあるかもしれないがと私はそれが理由で面白いとは感じなかった。

 もう一つ、PPAPも世間でヒットする少し前にTwitterで目にして、そのときは笑ってしまい、職場の同僚に紹介しさえしたのだけれども、何が面白いのかと言われると、特に面白いとは感じない。

 その場その場で笑わせることはけっこう誰にでもできるのかもしれないが、生き残り続けることができるかどうかは、面白いかどうかということが鍵になるのかもしれない。パッと現れては一大ブームを生み出し、ものすごい勢いでYouTubeの再生回数が伸び続け、それで広告収入がすごいことに…というようなことはあるかもしれないし、そういうタイプの現象はSNSの登場以降は特に起こりやすい条件になっているとは思うが、そういうものに持続性はない。SNSで流行ったものは、それがSNSという空間であるがために、短期間で忘れ去られたり飽きられたりして終わる。そして人間というのは似たり寄ったりにできているので、一定の条件さえ満たせばけっこうそれなりの数の人の笑いを取れてしまうものなのではないかと思いもする。では私が笑いを取れるかと言われれば、私にはとれないのではないかと思う。

笑いはしないが、面白いとは感じること:『自民党』と『経済成長の果実』

 上に挙げた二つの例は、「笑うが面白いわけではないこと」の例である。では「笑うわけではないが、面白いこと」はどうかというと、私の場合は本や動画がほとんどだと思う。本にしろ動画にしろ、あるいはそれ以外の何らかの作品にしろ、私がそれまで知らなかったことを元にして作られているものには新規性を理由に面白さを感じるし、私がすでに知っていることだけを元に作られているものであっても、私には思いも寄らなかったような発想や構成で作られているものにも、やはり新規性を理由に面白さを感じる。好奇心が強いから自然とそういう好みになるのだろう。

 例えば私は最近、中公新書から出ている中北浩爾の『自民党』と中公文庫から出ている「日本の近代」というシリーズの第7作にあたる猪木武徳の『経済成長の果実』を読んでいる*3。私は高校時代に政治に詳しい友達がいたこともあって、政治に詳しくないことについて少しコンプレックスのように感じていた。それは大学以降もずっとそうで、その割にちゃんと腰を据えて政治のことを学ぶことはないままだったので、今更ながらこういう本を読み始めたわけだが、当然のように自分が知らない言葉、それも固有名詞が本文にどんどん出てくるので、読んでいてとても面白く感じる。

 たとえば『自民党』なら、党の中でどういうことが起こってきたのか、党の中の派閥はどういう機能を果たしているのか、そのときそのときの経済の状況が変化すると自民党はそれにどう対応しながら変化してきたのか。民主党が政権をとったときには自民党はどうしたのかなどなど、がうまくまとまっている。まだ読み始めたばかりだけれども。ちなみにこの本を読み終えたら、自民党関連で中公文庫から出ている北岡伸一の『自民党』を読みたいと思っている。政党というのはどういう機能があり、それとは別に実際にはどういうものとして機能してきたのかということには、自分が出馬するかどうかとか、自民党に票を入れるかどうかとか、あるいはこれを知ったことで自分の年収が具体的にいくら増えるか(何の役に立つか)ということとは別にして、それなりに関心がある。

 あるいは『経済成長の果実』であれば、高度成長の時期に日本の社会はどういう変化をしたのか、それは今の日本とどうつながっているのか、当時生まれた制度や法律、企業の慣行は今も妥当なのかどうかなど、色々なことを考えるのに、とても参考になる*4。ちなみにこの本を読み終えたら、中公文庫から出ている吉川洋の『高度成長』を読みたいと考えている*5

 どちらの本も、テレビでは尺(時間)と視聴者層についての番組制作会社側の想定と広告代理店との関係などの複合的な事情で、ここまでまとまった内容を知ることはまずできないだろう。ちなみに私の家にはテレビはない。テレビゲームをするタイプでもないし、面白そうなドラマはTverやHuluで見ているので、わざわざ決まった時間に番組を見たいとも思わないし、いちいち録画するのも面倒なので、私は上京してきてからずっとテレビのない生活を続けている。それで困ったと感じたことはない。

 少し話の筋が逸れてしまったが、では私はこういう本を読んでいるときに顔が笑っているかというとそんなことはなくて、驚くほど無表情でありながら心の中ではとても面白がっている。いや、むしろそういうものの方が、顔が笑っていて面白いとも感じるものよりも、面白さの水準は上なのではないかとさえ感じる。

笑うことの良し悪し

 ここまでの書き方では、筆者は単に笑っているだけであることを批判したり、アキラ100%やPPAPを批判したいのかというと、私はそういうことを言いたいわけではないし、実際にそう思っているわけでもない。

 笑うことというのは、時と場合によって良くも悪くもなる。だから面白くないのに笑うことは常に悪いというわけでもないし、反対に人を笑わせることは常に良いことだとも思わない。時々後者のような考え方を根拠にして自らの芸人哲学を語る芸人を目にするが、私はその種の芸人哲学には用心している。その場にいる人間が笑っていても悪いことというのはあるし、そういう笑いの取り方を例えば政治家が行えば、失言(あるいは不適切な発言)を理由に失脚に追い込まれることすらある。

要するに何が言いたいのか

 いくつか例を挙げたりしながら書いてきたけれども、結局何が言いたいのかというと、笑うということと面白さというのは別次元のもので、一般には両者に正の相関*6があるように思われているが、それすらも誤りなのではないかということが一つ、もう一つは、私の場合は好奇心が強いので新規性を感じる「面白いこと」の方が「笑えること」よりも価値が高いと感じているということ、この二つである。

 

 

自民党―「一強」の実像 (中公新書)

自民党―「一強」の実像 (中公新書)

 
自民党―政権党の38年 (中公文庫)

自民党―政権党の38年 (中公文庫)

 
高度成長 (中公文庫)

高度成長 (中公文庫)

 

 

 

*1:ここに昨年のR−1の決勝戦でのコントを貼っておく。

www.youtube.com

*2:アキラ100%と同様にここにコントの動画を貼っておく。

www.youtube.com

*3:この二冊だけでは「そういう高尚な本の方がアキラ100%やPPAPより上」という誤解を受けそうなので、もう少し別の例を挙げると、「ボケて」の中には単に瞬間的に笑えるだけではなくて、面白いとも感じるネタがけっこうある。

ボケて(bokete) - 写真で一言ボケるウェブサービス

*4:私が猪木武徳を知ったのは大学のゼミで指定されたテキストのひとつが中公新書の『戦後世界経済史』だったことがきっかけだった。その後ゼミが終わり、しかし私は留年したために大学の5年目に突入した頃に『経済学に何ができるか』を読んだ。そしてその後、同氏は私の母校の教授に就任した。その当時の学長は私のゼミの担当だった教授で、ゼミで同氏の著書がテキストに指定されたのは教授の評価が高いということが理由で、ああついに教授として呼んだのかと思った覚えがある。

*5:吉川洋といえばマクロ経済学のテキストなどでご存知の方もいるかもしれない。最近では中公新書で『人口と日本経済』が出ていて、それも自宅にあるので、『高度成長』や『経済成長の果実』とも結びつけながら読みたい。

*6:比例といっても良い。つまり片方が増えればもう片方も増え、片方が減ればもう片方も減るというような関係を指す。ここではたくさん笑えるものほど面白く、笑えないものほど面白くないということになる。

何のせいだと考えやすいか

 

 自分自身のことについてうまくいかないとき、その原因を考える。そのとき、自分にはどうにもできない要因(以下「要因A」とする)と、自分にはどうにかできる要因(以下「要因B」とする)の二つにわけることができる。それでは人は、どちらの種類の要因のせいだと考えやすいのだろう。おそらく人は一般に、自分の能力や権限ではどうにもできないもののせいだと判断しやすい心理的なバイアスがあるのではないかと直観的には思っている。

 おそらくここ2年くらいの間、責任ということに関して、そういうことを考え続けている。2年考え続けている割にはここへきていきなり文章を書いているので、随分まとまった内容になっているのかというと、残念ながらまだ十分にまとまっている感じはしない。けれども、ここで一旦文章にしてみようと思い、書き始めた。

心の中の綱引き

 どんな人にとっても、要因Aのせいにするのは魅力的に思える。何しろ自分の力ではどうしようもないのだから、それに対して自分は何も手を打たなくてよいということになる。それは言い換えれば、問題の責任は自分にはないと考えることでもある。「それでは人は」や「人は一般に」などと書いたこともあり、ここまでの論の流れでは希望がないのではないかと思われるかもしれないが、そういうわけでもない。実際にはどんな個人も、ある問題の原因について考えるとき、自動的あるいは反射的に要因Aを選ぶというわけではなくて、頭の中では要因Aと要因Bのどちらを追求するかというある種の綱引きが起こっているのではないか。そしてその綱引きでは、放っておけば要因Aが勝ちやすいというのが、偽らざる人間の姿ということなのではないかということが、さしあたってここでの仮説である。では要因Bの方が勝つように手を貸せばいいのかというと、ことはそう単純でもない。

 例えばこういう問題を考える。引っ越してからというもの、どうも気分がふさぎがちな日が続いており、どうにもこの状態から抜け出せる気がしない。これは一体何が原因なのだろうか。人と会う回数が減ったから、まともな食事が摂れていないから、会社でうまくいっていないから、恋人がいないから、お金がないから、将来が不安だから、などなど、考えれば次々といかにも当てはまりそうな原因の候補が浮かんでくる。もしかしたらこの中のどれか一つでなく、複数の原因が複合的に作用しているということもあるかもしれない。

 ところがここである本を偶然読む。それは脳科学を扱った一般向けの本で、その中にセロトニンの分泌が活発になる条件について書かれた項目があった。曰く、朝日光を浴びるとセロトニンの分泌が活性化される…。ここで彼は一旦本を読むのをやめ、考え始める。そういえば引っ越してからというもの、自分が朝に日光を浴びなくなったことに思い至る。その原因を考えると、周囲がビルに囲まれており、たとえカーテンを開けていようとも、自分の部屋には朝の時間帯に日光が差し込むことはないのだと知る…。

 この例では、自分にはどうにもできない要因である「家の周囲の環境」が問題の原因であると考えることができる。もちろんそれに対して、お金にゆとりがあるなら日照条件のよい別の家に引っ越すなどの対応を考えることができるかもしれないが、もしもお金にゆとりがないなら、当面は自分にはどうしようもないと思い、諦めるのが得策だろう。だからこの場合には、自分の責任を感じずに済む要因に問題の原因を帰そうとするバイアスの負の影響は問題にならない。そこに心理的なバイアスがはたらいていようとも、正しい原因(家の周囲の環境)を特定できたのであれば、それで問題ないのだ。とすれば本当に考えるべきは、正しい原因が自分に責任のある要因である場合に、心理的なバイアスが原因で、自分には責任のない要因が原因だと判断してしまうことをいかにして防ぐかということになる。先ほどの比喩を使っていえば、綱引きを公平なものにするにはどうすればいいかということでもある。

個人の綱引きと集団の綱引き

 この綱引きは、一人の個人の心の中だけで完結している場合もあれば、複数の人間の間で影響しあうような場合もあるだろう。先ほど取り上げた例の場合は純粋に個人的な綱引きということになるが、では集団の場合というのはどうか。

 今回は女性の設定で例を考えてみる。大学を卒業して数年が経った頃、高校までの友人はすでに何人も結婚し、大学時代の友人の中からも結婚する友人が相次ぐようになった。高校までの友人たちが20や21などの年齢で結婚したときには、「そんなにすぐに結婚してもしょうがない」とか「自分は就職してある程度は働いてから結婚するのが希望だから」などと自分を納得させ、それほど動じることもなかった。大丈夫。今は就職活動に専念するのだ、と。

 しかしその後、就職して5年が経過し、大学時代の友人たちも続々と結婚していくにつれ、少しずつ焦りを感じ始める。以前はちっともリアリティを感じなかったアラサーに突入し、あと少しで30を迎えてしまう。26までに結婚するつもりでいたのに、気付けばもう27…。来月には28になってしまう。他の人たちはどんどん結婚していくのに、どうして自分は今も結婚できないままなのか。それどころか、彼氏すらできないのは何故なのか。すでに結婚したあの子やあの子と、自分がそれほど大きく違っているとは思えない。いやむしろ、自分の方が料理だってできるし、おしゃれにも気を使っているし、かといって相手を疲れさせるような「お高く止まった高嶺の花」にもならないようバランスを取ってもいるつもりだ。それなのに一体どうして…。

 この例では、女性は他の友人たちとの比較において自分の問題の原因を考えているため、純粋に個人的な綱引きでなく、集団的な状況の中で生じる綱引きといえるのではないかと思う。こういう場合にも、友人たちの結婚が続くにつれて精神的な疲労を募らせ、冷静な判断を下しにくくなり、ともすると「自分の家系は結婚できない家系なのではないか、考えてみれば私の両親も、父方母方のおじさんやおばさんも、結婚は早くなかった。何かそういう遺伝子が私にも受け継がれていて、私が結婚できないでいるのもそのせいなのではないか…」などと考えたりする。遺伝子のせいならば、自分にはどうにもできない*1から、手っ取り早くそのせいにして「すぐには結婚できない悲しい運命の下にある悲劇のヒロイン、それは私」を演じたりすれば、多少は気分も紛れるかもしれない。いや、さすがにこれは言い過ぎだろうか。

 けれどもこの女性が結婚できないでいるのは、単にメガネのセンスが悪く、服やカバンのセンスは問題ないのにメガネが全てを台無しにしてしまっているということに気付いていないだけかもしれない。そして想像力をあらぬ方向へたくましくして、全く見当違いな理由をでっち上げてそれに浸ってしまっている、と。

では結局どう考えれば綱引きは公平になるというのか

 純粋に一個人の中だけで完結する場合にせよ、他者との関わりの中で影響を受ける場合にせよ、心の中で二つの要因のどちらが真の要因であるかということを公平に判断するためには、少なくとも現時点での私は次の二つの対処法を考えている。つまり情報を集めること、それもネット上の噂といったものではなく、専門的な情報を集めてよくそれを頭の中で整理し体系化していくこと。そしてもう一つ、それはどんな場合にも「自分には、全てではないにしてもいくらかの責任があるかもしれない」ということを素直に引き受けて考えるようにすること。この二つである。たとえ真の原因が、自分の力を超えたところにあると後にわかるような場合であっても、自分にはこういう責任があるかもしれず、したがってそれに対して何か打てる手があるかもしれないという風に考えることができるか否か。一つ目の対処法は、バイアスに関わりなく正しい原因を突き止めるという意味で必要なことであると思う。そして二つ目の対処法は、バイアスがあるかもしれないということを認め、その逆側を初めから意識するようにするという、いわばバイアスを逆手に取る考え方である。

 これだけ書いておきながら、私は「でもそもそもそんな心理的なバイアスは実はないかもしれない」と思っているところもある。何しろ科学的な根拠をまだ見つけていないのだから、結論を下すには情報不足だ。つまりこの問題自体が、何らかの心理的なバイアスの存在によって結論を誤る可能性が含まれているという危険性を私は抱いている。だから、もしバイアスなどなかった場合には、上の2つのうちの1つ目の対処法だけを実行すればよいことになる。つまり1つ目の対処法は、どちらに転んでも損はしないという、ある種の保険のようなものだ。しかしその一方で、自分には何の手も打てないと考えるのもなんだか悔しいという思いもある。だからどんな問題を考えるときにも、自分には打てる手が何かあるのではないか、裏返していえば自分には何らかの責任があるのではないかと考えるような思考の習慣をつけておきたいという思いもある。その意味で2つの対処法は私の中で、アンビバレントな関係にある。

 

 

エピジェネティクス――新しい生命像をえがく (岩波新書)
 
双子の遺伝子――「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける

双子の遺伝子――「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける

 
日本人の9割が知らない遺伝の真実 (SB新書)

日本人の9割が知らない遺伝の真実 (SB新書)

 

 

 

 

 

 

*1:少し前までは、遺伝子のせいにするのは責任から逃げたい人の常套手段として使われていた節があったが、近頃ではエピジェネティクスの研究が一般にも広く紹介されるようになり、環境の変化によって特定の遺伝子の発現のしやすさが変わってくるということがわかっている。そういうきっかけを作った本として、たとえば仲野徹の『エピジェネティクス』やティム・スペクターの『双子の遺伝子』、もっと最近の本だと行動遺伝学を扱った安藤寿康の『日本人の9割が知らない遺伝の真実』や、ストレートなタイトルの本としてシャロン・モレアムの『遺伝子は、変えられる』などもある。エピジェネティックな変化の存在を指摘する研究が増えているので、「遺伝子は生まれる前から決まっているのだから、生まれたあとでどうこうしたところで無駄」という考え方は妥当ともいえなくなってきている。もっとも、エピジェネティクスについて知らない人間ばかりの環境では、誰からも指摘がないために、あいも変わらず遺伝子のせいにして責任逃れをしたがる人間が残りやすいということはあるだろう。そして全ての遺伝子が環境によって変えられるわけでもない。たとえば髪の色などはどんなに環境を変えても黒から金に変わったりはしない。

植物の生と動物の生

 『置かれた場所で咲きなさい』という本がある。渡辺和子さんというカトリックの修道女の方が書かれた本で、2012年に単行本が発売されて以来、はじめはそれほどでもなかったように思うが、去年などもけっこう話題になり、文庫化もされ、今や200万部を超えるミリオンセラーである。多くの本*1が一年以内に書店から姿を消す昨今の出版状況においては、数年以上書店に置かれ続けているのだからもはや「ロングセラー」とも言える。

 初めに断っておくと、私は著者の渡辺さんに何か不満があるわけではない。昨年末に帰らぬ人となった著者に対して、もはや私の賛辞も不満も届かなくなってしまったけれども、私は今もなお、どうしてもこの本に対して得心がいかない。それだけのことである。

 私がこの本を初めて目にしたのは、ほぼ毎日のように書店に足を運ぶ習慣があることから考えると、出版されて間もない2012年の頃だったろうと思う。まだ内容を読まないうちから「今いる場所でがんばりなさいという内容なのだろうな」と思っていた。そして私はその頃から、なんとなくこの本に言い知れぬ違和感というか、もう少し別の言い方をすれば拒否感のようなものすら抱いていた。冗談じゃない、と。

 しかしその後、この本は世間で話題になり、あれよあれよという間にベストセラーになってしまった。おいおい勘弁してくれよと私は思った。しかしその頃もなお、私は自分がどうしてこれほど違和感なり拒否感なりをこの本に対して抱いたのか、いや今も抱き続けているのかということがはっきり言葉で表現できないままだった。そこで私はこの本をひとまず一度は読んでみようと思うに至った。

 そして読み終えて率直に思ったことは、私が当初思った通りのこと、つまり「今あなたが置かれた場所で頑張ることに価値があるのだ。だからがんばりなさい」ということが書かれているにすぎないということだった。本を読むとき、その感想は先入観に左右されることがある。もしかしたら今回の私もそうであったかもしれない。読む前から「どうせこんな内容であろう」と半ば侮ったような、そういう思いがあったことは確かだ。しかしその一方で、この本を初めて読むにあたって、先入観に左右されず虚心坦懐に読み解きたいという思いもあり、なるべく本文に忠実に読もうと努めもした。けれども、やはり私の読後の感想は上のようなものに留まった。

 時間が経つにしたがって、私の中で考えがはっきりしてきた。その核になる部分だけを先取りすると、つまり私はこの本が、動物としてのヒトの生を植物としての生になぞらえた部分に反発心を抱いたのだ。この点を詳しく述べるには、二本の補助線を引かねばならない。

 『植物は〈知性〉をもっている』という本がある。この本もそれなりに売れているのか、重刷がかかり続けているようで、今も書店の本棚で何冊も横に並べて置かれているのを目にする。植物にも植物なりの「感覚器官」があり、それはこの本の副題である「20の感覚で思考する生命システム」からも知れる通り、ある意味では人間の五感よりも多く、様々なチャネルを通じて外界の変化を感じ取り、それに応じていわば戦略的*2に行動している例が数多く紹介されている。

 私はもちろん動物である。そこである意味では私と異なる存在である植物について、「植物なりの生とはいかなるものであるか」ということに関心を覚え、この本を購入して読んだ。動物と植物の違いは体の構造やDNAの中身など色々あるが、一つは動けるかどうかという点にある。動物は移動して住む場所を変えることができるが、植物はそうはいかない。芽を出して成長し、花や果実をつけるのは「その場」においてである。そういう条件のもとで生きなければならないということには長所も短所もあり、個々の植物は短所を補い、長所をいかすような工夫をして生きている。そこには植物なりの尊厳があるし、それに対して私は敬意を払いさえする*3

 しかし、そういう動かぬ賢者たる植物たちに相応の敬意を払うことと、その生き方の条件を真似ることとは同じではない。 動物として生まれたのであれば、動物としての生の条件を引き受けることを考えるべきだと感じる。そこにはもちろん植物の生との共通点もいくらか見つかるだろうが、植物の生を真似ることとはやはり明確に異なる。置かれた場所で咲くということは、私が植物であったなら、逃れ難い運命として受け入れるほかなかっただろう。それは私の生の根本的な一条件であって、二本なり四本なりの脚であちらこちらを走り、自らの意思によって環境を変えるということは諦めなければならなかっただろう。ところが実際には、私は動物として誕生し、動いて場所を変えることができる。これが補助線の一本目である。

 場所を変えるということを最も端的に示す私自身の例は、大学進学とともに19年間生活した福岡の北九州を離れて上京したことである。私は地元に自分の居場所を感じ取ることができなかった。仲のいい友人はいたし、美味しい食べ物もテレビもあり(上京前、私はそれなりのテレビっ子であった)、そこで満足に暮らしていく人間に対して軽蔑するというようなこともなかった。けれども「自分はここで暮らし続けたくはない」という思いはずっとあったし、上京してきて色々嫌なことも経験した後でも、地元に帰って地元で暮らそうとは思わなかった。そういう人間は大学にも少なからずいたし、彼ら彼女らは自分と同様に、東京での就職と東京での生活を望んだ。それが叶った者は残念ながら少なく、卒業と同時に地元へ帰っていった者や、一旦や東京で就職したものの、地方に転勤になって数年間その土地で生活し、その後関東の地元へ戻ってきてそこで勤務という者が多かった。だから、少なくとも統計的には、多くの人間は地元という置かれた場所で咲くことを求められる状況にあると言えるのかもしれない。それならばもういっそ、植物のように、今自分が置かれたその場で、自分の意思で移動して環境を変えることなど望まず、まずはその場で懸命に努力して花を咲かせることが正解なのではないか、そう訴えかけてくるような感覚を、私は『置かれた場所で咲きなさい』に対して抱きさえした。そしておそらくはそういうことを渡辺さんは書こうとしたのではないかとも思っている。これが補助線の二本目である。

 

 今の私もまた、上に述べた多くの者たちと同様に、地元へ戻される圧力の中にある。東京での就職を望みながらもそれがうまくいかず、遅かれ早かれ地元に戻ることになるのなら、もういっそ東京での就職活動など切り上げて、早々に帰ってきたらどうかというところだろうか。置かれた場所で咲きなさいという声が聞こえてくる。

 冗談じゃない。

 たとえ統計的には置かれた場所で咲くことを求められているのが今の日本の現実であるのだとしても、私は初めから場所を移動することを諦めて植物の生を選ぶなど耐えられない。動物らしく動き回り、「他人や環境のせいにするな」というもっともらしい自己啓発由来のお題目にも流されず、冷静に考えて環境が悪いと思えば環境を変える。『置かれた場所で咲きなさい』は、渡辺さんが老齢に達した後に書かれた本であり、いわば老いによる疲れが、動き回ることとの距離と困難とを生み、その困難さの感覚は一定の諦念すら生み、その全てがこの本には混じっているのではないかと私には思われた。これは本筋を外れた私見に過ぎないが、歳をとることによる諦念は色々な形で表出し、「経済成長を諦める」ということを年老いた人々が説くのを見るときにも、私は渡辺さんに感じ取ったのと同じ類の諦念を見る思いがする。

 私にはまだ動かせる足があるし、その意思もある。『置かれた場所で咲きなさい』に苛立ち続けるだけでは、私もいずれ、置かれた場所で咲くという生のあり方を受け入れざるを得ないところへ追い込まれるだろう。私の意思と私の足が、その苛立ちを上回れば、私は植物には不可能な戦略によって私の生を全うすることができるかもしれない。

置かれた場所で咲きなさい

置かれた場所で咲きなさい

 
リケイ文芸同盟 (幻冬舎文庫)

リケイ文芸同盟 (幻冬舎文庫)

 
植物は〈知性〉をもっている 20の感覚で思考する生命システム

植物は〈知性〉をもっている 20の感覚で思考する生命システム

 

 

*1:そういえば最近読んだ『リケイ文芸同盟』という小説の中で、日本に1年間で生まれる本の数が78000冊という記述があった。

*2:「いわば」などともって回った書き方をしてのには理由があって、ここ数年「植物戦略本」とでもいうようなジャンルができつつあり、それらは一様に「植物たちはこれこれこういう戦略をとって生きている。我々人間もそこから学べることは少なくないのではないか」ということが主要なメッセージになっている。『植物はそこまで知っている』『植物の体の中ではなにが起こっているのか』『植物の形には意味がある』『たたかう植物』『植物のあっぱれな生き方』などなど、現時点でもその数はそれなりの数に及ぶ。攻殻機動隊の好きな人はアーサー・ケストラーの『機械の中の幽霊』を翻訳したことでご存知の日高敏隆も、植物の戦略について平易なエッセイを書いており、私は以前の職場であった塾で、小学六年生向けの国語のテキストの中でそのエッセイを目にした。こういうところにまで植物の戦略ブームは及んでいるのかと思ったことを今でも鮮明に覚えている。

*3:この本の中でも、2008年にスイスで植物の尊厳を守る団体が設立されたことが書かれていて、リーマンショックとそれに付随する形で引き起こされた金融危機に世間が湧いていたのと同じ年に、こういうことも起こっていたのかと印象的であった。

インフレターゲットと弾力性について

 

 「弾力性」への導入

 先日インフレターゲットの効果に対する懐疑を示す記事を書いた。

plousia-philodoxee.hatenablog.com

 この記事は4月20日に書いたあとに一旦下書きとして保存し、今日になって色々手を加えて公開したもので、公開した後になって「弾力性」(elasticity) の概念と結びつけて具体的な計算をしてみると、話がわかりやすくなるのではないかと思い、この記事を書き始めた。

 経済学では「弾力性」という概念がある。一般に「AのB弾力性」といえば、Bの変化によってAがどれくらい変化するかということを表す。たとえばミクロ経済学のテキストでは必ず紹介される「需要の所得弾力性」であれば、所得が増えると需要がどれくらい増えるかということを表す。

 それでは「消費の予想インフレ率弾力性」はどうか。予想インフレ率(インフレ率の期待値)が変化すると消費はどれくらい変化するのかを表す値ということになるが、これは消費者の所得水準によって値が異なるのではないか。つまり低所得の消費者は弾力的であり、高所得の消費者は弾力的でないのではないか。弾力性の概念を正確に定義するためには偏微分の知識が必要になるが、ここでは小学生レベルの算数しか使わない。

単純なケースで弾力性の効果を考える

 ここで消費者が10人という小規模の経済を考える。この経済の中で7人は平均年収400万円の低所得(Con[low]で表す)であり、3人は平均年収2000万円の高所得(Con[high]で表す)であるとする。所得格差はそれほど大きくないところが日本らしいといえる。これがアメリカであれば、もっと格差は大きい。所得はいずれも税引後の金額であるとする。さてこの国の中央銀行がインフレ率のターゲッティングを宣言し、予想インフレ率が1%上昇したとする。このとき、以下の2つのケースでこの政策がどれくらい効果を発揮し、その程度はどれくらい異なるかということを示す。

【ケース1:弾力性が消費者によって異なる場合】

Con[low]はこの変化に敏感に反応し、消費額が3%増加する。一方でCon[high]はそれほど敏感に反応せず、消費額は1%しか増加しないとする。

 さてこの国全体で消費はいくら増えるだろうか。つまりインフレターゲットはどれくらいの効果を発揮するだろうか。

Con[low]:400万円×0.03×7=84万円

Con[high]:2000万円×0.01×3=60万円

合計:84万円+60万円=144万円

この経済の規模はもともと400万円×7+2000万円×3=6280万円だからインフレターゲットによる消費拡大は144÷6280≒0.023つまり2.3%に留まることになる。全く効果がないとは言わないが、これで経済が上向くとはいえないし、根本的な解決とも言い難い。 日本を想定して考えたが、日本よりも格差の大きいアメリカではどうであろうかと思ってしまう。

【ケース2:弾力性が全ての消費者で同じである場合】 

ケース1では消費者の所得水準によって弾力性の値が異なるという仮定に基づいて計算したが、仮に10人がみな同じ弾力性の値、たとえば予想インフレ率1%の上昇に対して消費額が2%をもつと考えた場合はどうなるか。

Con[low]:400万円×0.02×7=56万円

Con[high]:2000万円×0.02×3=120万円

合計:176万円

となり、ケース1よりも大きな効果を発揮することがわかる。政府や中央銀行がどちらのケースを想定しているのかはわからないが、実際にはケース1のような状況であるにも関わらず、ケース2のような楽観的な想定をしているとすれば、これは見直しが必要ではないかと思う。

技術革新とマイナス金利

 もちろん、技術革新によってあらゆる財*1の価格が低下し、所得水準は一定でも購買力が増加するというのであれば、別に構わない。年収400万円のままでも、家が500万円で買え、新車が20万円で買え、海外旅行に1万円で行けるなら人々は満足に暮らしていけるだろう。しかし技術革新は短期では起こらない。たとえば銀行を介して融資へ回された富裕層の預金が企業の技術革新の原資になるとしても、身を結ぶまでは苦しい生活が続くのでは、人々の不満は消えない。

 また技術革新は財の価格を押し下げる圧力、つまりデフレ圧力としてはたらくので、物価の持続的な上昇としてのインフレを狙う現行の政策とは整合的でない。この点をもう少し詳しく述べる。技術革新のためには投資が必要であり、その投資は人々の貯蓄を原資とする。所得は消費か貯蓄に振り分けられるため、インフレ圧力によって消費が喚起されている状況では、人々は自らが得た所得を貯蓄でなく消費へ、より多く配分するようになる。そのため投資が十分な水準に保たれず、技術革新が起こりにくくなる。反対に技術革新のために投資を重視するのであれば、人々が消費よりも貯蓄へ所得を配分するような条件が求められる。これはデフレ圧力であって、インフレターゲットの環境では実現しにくい。

 ここでマイナス金利ということが問題になる。マイナス金利の環境では、銀行は国債でなく企業への融資を促される。これは投資の増加を通じて技術革新を起こしやすい環境を生み出すと考えられる。けれども実際には、技術革新によって人々の購買力が増加するということを期待できない。家も車も旅行も高いままだし、子どもを産んで育てていこうにも大学まで想定すると教育費は負担できるか不安である。マイナス金利は銀行融資を通じた技術革新によって消費者の購買力増加というかたちで効果をもつならばいいが、素朴な生活実感に照らして考えるとそういう効果があるとは思えない。

まとめ

  ここまでの話をまとめよう。消費者の所得水準が一定であっても、技術革新によって購買力が増加するならばいいが、そうはならないと考えられる場合、少なくとも短期では経済全体で消費の額が増え、ある個人の消費が別の個人の所得へというかたちで貨幣が流通していくことが望まれる。しかし2つのケースに分けて考えた通り、所得水準によって消費の弾力性が異なり、高所得者の弾力性の値が小さいような場合には、インフレターゲットの効果はかなり限定的なものに留まることになることが確認された。

 したがって、それでもなおインフレターゲットにこだわるのであれば、高所得者の弾力性の値を上昇させるようななんらかの「テコ入れ」が必要になるだろう。けれどもそれは「あなたはお金持ちなんだからもっとものを買ってください」という特定の選択を強要することになるため、「そんなの私の自由でしょ。私は清貧を是としているんです」などと言われればおわりかもしれない。一体どこに希望を持てばいいのだろう。

*1:ここで「ある財」ではなく「あらゆる財」と書いたことには当然理由があって、ある特定の財の価格が低下しただけでは、他の財からその財へ消費が移るだけの話で、購買力はそれほど変化しない。今まではうまい棒が10円、カルビーのポテトチップスが150円だったから、うまい棒を好んで買っていたが、技術革新によってカルビーのポテトチップスが50円まで値下げされたら、うまい棒を買っていた人々もカルビーのポテトチップスを買うようになるだろうが、それは購買力の増加としては大したものではない。しかしあらゆる財の価格が低下したら、うまい棒カルビーのポテトチップスもこれまでよりたくさん買えるようになる。これは購買力の増加によって生活が豊かになったと感じるには十分であろう。

働き方改革もインフレターゲットもマイナス金利も意味ないんじゃないか

と思っている。問題はむしろ一部の人間がもっている莫大な資産*1が消費でなく銀行預金に回され、しかし預金に回されたところで消費の当てがなければその預金が融資につながることもなく、それでも銀行はやっていかなければならないので日本やアメリカの国債を買うくらいしかなくなっている。日本やアメリカの国債を買ってそれぞれの政府の財政を維持なり改善なりしたところで、消費が増えなければ意味がない。

 ではどうするか。政府による再配分、あるいはせめて、一部の裕福な人間たちにもっと消費してもらうしかない。それはもう、とんでもなく豪勢に使ってもらうしかない。そうでないとお金が回っていかない。貨幣の流動性はいつまでも低いままだ。不動産は文字通り不動の資産になってしまっている。マイホーム幻想は広がるばかりだ。

 大学にいた頃、マクロ経済学の授業では経済を短期と長期で分けて考え、短期では需要(消費)が、長期では供給(投資)がそれぞれ重要であるということを教わった。「供給はそれ自体が需要を作り出す」というセイ法則は長期に当てはまる法則として説明される。古典派もそれを数学的により精緻に体系化した新古典派も、基本的には長期を軸に経済の変動を考えている。これに対して、公共事業の拡大やそのための増税の正当化に用いられるケインズ主義は短期を軸に考えている。

 そして消費を喚起するためにインフレ率を操作するインフレターゲットは、消費をするための原資を持つ消費者が十分な数いれば成り立つが、給料が上がる前に消費を喚起されても消費は伸びない。大多数の人間は消費しようにもそんな余分などそもそも持ち合わせてはいない。そんな余分があるごく一部の人間が消費しなければ意味がない。そしてそういう消費のゆとりがない人間の残業がなくなったりインフレになったりすることが、消費を一気に増やす効果をもつとも思えない。

 あるい銀行にマイナス金利を設定してもっと積極的な融資を促したところで意味はない。買いたくても買えない人だらけなのだ。家も車も、旅行も、もっと小規模の色々なものですら。家なら豪邸を10軒以上、車なら100台以上買え、旅行も一生できるような資産をもっているごく一部の人間が、当然家は多くても数軒、車も多くて数台、旅行も年に何度かというくらいしか行かず、余ったお金はどうするかと言えば、当然預金だ。その預金は銀行で融資のための原資になるが、融資先がない。

 高級外車を何台も買ったり、豪邸をいくつも買ったりする成金的な富豪が非難されたりするが、私はむしろそういう人たちはどんどん消費した方がましだと思う。高級外車にしろ豪邸にしろ、消費をすればそれは別の誰かの所得になるのだから。逆に「清貧」を気取ってお金を使わない富豪の方が、哲学としては立派かもしれないが、それが経済にもたらす負の効果を考えると、思慮が浅いのではないかと思ってしまう。グッチやプラダを着ている富豪よりも、ユニクロを着てあとは貯金という富豪の方が、マクロ経済に与える負の効果は大きいのではないか。あるいは別の言い方をすれば、言動が鼻につく若いIT企業社長よりも清貧を説く中高年の大企業社長の方が、困った存在なのではないか。 

 再配分という意味では企業の内部留保を減らして労働者にもっと給料を与えるというのも手だと思う。これは時々目にするが、企業の内部留保が多いのは不景気の原因ではない。むしろ結果なのだという論もあって本当に厄介だと思う。因果関係は逆で、消費の原資として賃金が労働者に配分されないから消費が増加しないままになり、その結果として不景気になるという順序だ。莫大な資産を持っている人間に消費してもらうなり課税を通じた再配分なりを考えた方が効果は大きいと思うが、実現のハードルを考えると企業の内部留保を取り崩すということを何らかの政策を通じて促す方が手をつけやすいかもしれない。

 あるいは富裕層の預金が銀行を通じて別の企業への投資へ回り、その投資はその企業の労働者への賃金として分配されていけば、有効需要は増えるので経済へよい効果を与えるだろう。しかしいくら投資がなされてもそれが人へ配分されなければ、少なくとも短期では意味がない。その意味では、投資一般が悪であるというのではなく、賃金上昇を通じて有効需要を増加させないようなタイプの投資はよくないということになる。

  こういう構造を変えることは難しいから、他の方法として働き方改革なりインフレターゲットなりマイナス金利なりに手をつけているということだと思うが、それらでは構造を変えるほどの効果はないのではないかと私は思う。

 お金持ちが消費せずに投資ばかりするようになった経済は回らない。そういう意味では日本に限らずアメリカも同じではないか。

*1:「一部の富裕層が」ということが話題になると「でも日本は富裕層だと収入の半分は税金で持っていかれるじゃん」ということが指摘されるのを目にするが、半分持っていかれてもなお手元に残る金額が膨大だったらどうなのだろう。日本人はアメリカほど派手にお金を使わないことがまるで美徳のように言われることもあるが、結果論からいえば富裕層はむしろ派手に使った方が経済全体のためではないか。

情報の系列化

 少し以前のできごとになるが2月の上旬にこんなニュースがあった。18歳のアイドルである松野莉奈さんが急死し、その死因について、事務所の正式な発表がなされる前から「ウイルス性の脳症が原因では?」というデマの情報がTwitterなどで拡散したというものだ。*1

 起こったことを時系列に沿って並べると以下のようになる。

 

2月8日 松野さん急死

2月9日 ウイルス性の脳症が原因ではというデマ情報が拡散

2月10日 松野さんの所属事務所が死因(致死性不整脈)を公表。

 

 9日の時点の情報だけに接した人間は、そこで一気にウイルス性の脳症について調べ、その影響はTwitterのツイート検索でも当時は検索候補の上位に「ウイルス性 脳症」という言葉が表示されていたことに現れていた。10日の事務所発表によって、ウイルス性の脳症が死因とする情報はデマだったことがはっきりしたが、それまではデマと気付かずにその情報を信じた人も少なくなかったのではないか。当時、Twitterでは「ウイルス性の脳症」というツイートをたくさん見かけた。ほんの数日待つだけで、調べるべき単語は「ウイルス性脳症」から「致死性不整脈」へと変わっただろう。ツイート検索の候補もそれに応じて変化しただろう。

 芸能人の死という問題に限って言えば、「所属事務所の公式発表を待つ」というのを基本姿勢にしていれば、デマに振り回せれずに済んだという考え方もできる*2が、一般にこういう医学関係のニュース、あるいはさらに一般に専門知が関わるニュースでは、私自身も含めて大多数の人は専門的な知識を持たないため、情報の真偽を自分の力で評価することができない。少し前に問題になったDeNA運営のWELQでも状況は同様であったし、医学以外の領域、例えば原発事故や食品の安全性、STAP細胞地球温暖化、最近では森友学園に関する大阪での国有地払い下げ問題など、専門知が問われるニュースというのは短期では意見が割れやすく、長い時間をかけてコンセンサスが形成されていくものだ。しかしコンセンサスができる前にはもう別のセンセーショナルなニュースが現れて、短期間でなされた評価が消費されて終わる。そして多くの門外漢の人間は「結局どれが正しいの?」ということを判断できず、誰の情報、或いはどこの情報を信じればいいのかということがわからなくなりやすい。人々が社会で起こる問題について参照するメディアが、全体として「短期」に引っ張られ過ぎていて、もう少し時間をかけてまとめられた意見がメディアの中で見かけなくなった。本は別だが。

 「誰が言うかよりも何を言うかの方が重要である」というのが私の個人的な考え方であって、これについては以前にも記事を書いたことがあった。これに関連して最近こんな記事を読んだ。

gigazine.net

 「誰がシェアしたか」を基準にするのは、ある意味では妥当と言える。自分の専門外の問題について理解を深めるために、その分野について自分よりも詳しそうな人間の見識に頼るのは妥当であるし、たとえば教育というのも自分よりも詳しい人間から学ぶ機会を与えるということを前提に設計されている。教育的効果という意味では、「誰がシェアしたか」基準は非専門家の人間に専門家の視点を紹介し、専門知に触れる機会を与えるという意味で意義がある。私がそれでも「何を言うか」の方を重視するのは、専門知は自分で学べばよく、一旦学べば誰が言うかよりも何を言うかで言論の内容を評価できるようになると考えているからだ。

 しかし一方で、世間で起こる問題について人々が意見を参考にする人間がその問題についての専門家であるかというと、いつもそうとは限らない。いや、むしろ「著名人」ではあっても専門家ではない人間の意見が参照されていることも少なくない。起業家が原発問題についてツイートしていたとして、いくらその起業家が大きなお金を動かしているとしても、原発についての専門知を持っていなければ「誰が言うか」に引っ張られるべきではない。これについて、ショーペンハウエルの『読書について』から引用する。

 作品は著者の精神のエキスである。したがって作品は、著者がいかに偉大な人物であっても、その身辺事情に比べて、常に比較にならぬほど豊かな内容を備えており、本来その不足をも補うものであるはずである。だがそれだけではない。作品は身辺事情をはるかに凌ぎ、圧倒する。普通の人間の書いたものでも、結構読む価値があり、おもしろくてためになるという場合もある。まさしくそれが彼のエキスであり、彼の全思索、全研究の結果実ったものであるからである。だがこれに反して、彼の身辺事情は我々に何の興味も与えることができないのである。したがってその人の身辺事情に満足しないようなばあいでも、その人の著書は読むことができるし、さらにまた、精神的教養が高まれば、ほとんどただ著書にだけ楽しみを見いだし、もはや著者には興味をおぼえないという高度な水準に、しだいに近づくこともできる。(ショーペンハウエル『読書について』(岩波文庫)p.138, 139)

 私が個人的に好きな映画の一つに『グッド・ウィル・ハンティング』がある。その後半部分で、主人公のウィルは数学の証明の問題を解くためにマクローリンの公式を使うのだが、それが誰の公式かということはちっとも気にしていない。これも「誰が言うかより何を言うか」の一例と言えるのではないか。映画のスクリプトの一部が載っているサイトを見つけたので引用する。

トム:教師が天分を見抜けないので自分はバカだと思い込む優秀な学生が多い。その点君は幸せだ。ランボー先生は君を認め手を差しのべてる。
ランボー:やあ、ウィル。トム、コーヒーを。
トム:いいとも。
ランボー:解けたか?いいぞ。正しい証明だ。マクローリンの公式か。誰の公式だか…こうなるのか。私が間違いを?
ウィル:それが正解です。次からはショーンの所で。ここはバイト先が遠くて…
ランボー:いいよ。この計算は…
ウィル:計算は合ってます。ゆっくり確認を…
そしてウィルは去る。

(表記を一部修正の上、以下のサイトから引用

http://www.oocities.org/take12take/zeminar1.htm

 

 SNSでは、情報は早くシェアされやすいという速報性のバイアスがかかっている。数日、あるいは数週間、あるいは数ヶ月に渡って時間をかけて調べた結果をまとめた投稿などは、SNSで見た試しがない。4月7日に発表されたニュースは数時間以内、あるいは遅くとも翌日か数日以内にはシェアされてしまう。そこには複数の情報を連ねた系列が存在しない。 他の情報との間の連関が見えない。「情報の断片化」というのは、SNSの登場以前から、ネット上にある情報の特徴としてしばしば指摘されてきた特質であったから、その意味では今更という感じもするが、それだけ指摘されてきたにもかかわらず、ネット上の情報も、そしてSNS上の情報もちっとも系列化されていないのは何故なのかということついては、今更ではあれ考える意義はあると思う。

 もちろんあるサイトの内側で、同一執筆者の記事が連載記事としてまとめて読めたり、ある記事の途中や下に関連記事として同一イシューの記事が紹介されているということはある。けれども他サイトの記事は利害関係に引きずられて紹介されていない。プラットフォームのYahoo!のニュースやLINEニュース、NAVERまとめなど、複数のソースの記事が関連記事として紹介されているページもあるが、そこでは同じ日付の記事どうしが横並び的に参照されていたり、あるいはラグがあってもせいぜい数日か数週間というくらいの時間の幅しかなく、問題の背後にある構造を照らし出すのに必要な時間の幅として十分とは思えない。個々のサービスとそれが提供するコンテンツの時間的な幅の関係については、以前からいくつかの記事を書いた。

[1] 情報と時間 - ありそうでないもの

[2] ランキングと記憶と銀行について - ありそうでないもの

[3] RSSでもキュレーションでもGoogleでもSNSでもなく、欲しい情報をどうやって得るのか - ありそうでないもの

 キュレーションサイトやニュースサイトはそもそもそういう目的で作られたものではないといえばそれまでかもしれないが、では他にそういう目的を持って機能しているサイトなりサービスが大きな規模で展開されているかいえば、今は単行本くらいしかないように思える。新書や文庫本では紙幅の都合などで付いていないこともあるが、巻末の索引や参考文献のページを見ると、2017年の問題を論じる本であっても1990年代や2000年代、あるいはもっと以前の本や記事や論文が参照されながら論が展開されていることが確認できる。TwitterFacebookで、そういう時間の幅をもったツイートや投稿を見かけることはほとんどない。ほとんどのツイートは、今この瞬間の反応の速さを競うようなものばかりで、「自分の方が早くから知ってた」というアピール合戦に終始しているような印象すら受ける。そこでは「真実が何か」ということよりも、「今この瞬間にインパクトのある素材かどうか」という、昨今しばしば指摘される「ポスト真実」(post-truth)の状況が展開している。

 デマかどうかを確かめることやファクトチェックについては、Facebookも対応を取るようになったし、他の様々なサービスでも真実かどうかを確かめることに重きを置く風潮は生まれてきている。WELQの問題もそういう風潮を後押しするのに一定の貢献をしたというポジティブな評価を与えることもできないではない。けれどもこの問題について、ここまでの趣旨に即して考えるならば、情報をある程度の時間の幅を持って系列化し、人々がその系列を容易に確認できるようにすること、そしてもちろんそれは情報を得る各人の興味関心に影響されてフィルターバブルの問題につながらないようにすることが必要ではないか。
 思えば検索エンジンGoogleは創業当初、他の多くのサイトからリンクされているサイトこそが、内容的に価値のあるサイトであるという考え方をベースにしてネット上のページをランクづけすることで、スパムに対して頑健なサービスを生み出したというところに意義があった。もっとも初期のGoogle検索エンジンアルゴリズムについて解説した『PageRankの数理』から引用する。

 HITSとPageRankとは,  地理的にも時間的にもそう違わないところで発見されたのだが,  独立に研究されたきたようにみえる.  この2つのモデルの間の関連は驚くべきものである([110]*3参照).  それにもかかわらず,  この多忙な年以来,  PageRankが主たるリンク解析モデルになったが,  それは,  クエリー独立性(3.3節参照),  スパムに対する事実上の免疫性,  およびGoogleのビジネスにおける巨大な成功によるものでもあった.

(第3章 人気度によってウェブページをランク付けする

    3.1 1998年の場面 p. 32, 33より太字筆者)

 それは学会の論文の相互参照のしくみにヒントを得て生まれたアイデアだったが、その後のネット上のサイトの群れを見ていると、検索エンジンアルゴリズムのアップデートの間で今もいたちごっこを続けているSEO対策を割り引いて考えても、学会の論文参照とはかけ離れたノイズばかりの世界になってしまった。検索者個々人に最適化した結果としてフィルターバブルの問題が指摘されたりもした。学会の論文についてもすでに頻繁に引用されている論文ほどさらに多くの参照をされやすいという歪みがあることは以前から指摘されているが、それにしてもネットほど酷くはない。

 それでは学会の論文参照と今のGoogleはどこがどう違っているのか。あるいは冒頭の問題意識に引きつけて言うならば、どうして他のどの領域よりも多くの情報がアーカイブされているこのネットという空間が、アーカイブという長期の情報が活用されず、短期のセンセーショナルな情報ばかりが消費される最大の消費地のようになり、新聞やテレビもその短期性に引きずられるというような状況になってしまったのか。

 学会の論文参照に相当するシステムをネット上で実現しようとするときにGoogle以外のやり方はないのか。アーカイブされた過去の情報がもっとうまく掘り起こされて有効活用される空間を作る方法はないのか。

 

ある、と思う。あとは「ではいかにして?」だけではないか。手がかりはある。図書館の本の並べ方について、ほとんどの人は文句も言わずに受け入れているのは何故なのか、ということだ。そこにはフィルターバブルなどない。そして個人への最適化もない。けれども人々は図書館へ足を運び、そこでそれまでは知らなかった本に出会う。恣意性のない並べ方をすれば、たとえ「自分個人向け」に最適化などされていなくても、人々は自然にそれを受け入れるのではないか。本の巻末の参考文献について文句をつける人がほとんどいないのも同じ理由ではないか。ではそれをネット上で実現するにはどうするかということだ。

 

*1:

matome.naver.jp

*2:芸能人の死とは異なるが、集団的自衛権をめぐる憲法改正に関する論議で生じる誤解についても、政府の公式発表を参照しないために誤解が輪をかけて拡散していくということがあるのではないかということを以下の動画を見て感じた。

www.youtube.com

*3:Amy N. Langvile and Carl D. Meyer. A survey of eigenvector methods of web information retrieval. The SIAM Review, 47(1):135-161, 2005

情報と時間

 近頃、情報と時間の関係について考えることが多くなった。それぞれの情報は、その属性に応じて、必要とする人へ届けられるべき「タイミング」というものがあるが、現在のインターネットはそういうところがうまく設計されていないのではないかと感じることがある。リアルタイムの情報はどんどん忘れ去られ、アーカイブはほとんど活用されていない。それは新聞を読んだりニュースを読む人が多くても、図書館へ足を運ぶ人が少ないことから推してもわかる。ネットであれば解決する問題とも限らない。

 TwitterFacebook、ニュースサイトやRSSフィード購読では、個人の他愛ないつぶやきから近況報告、これからやろうとしていることの宣言、今のこの自分を認めてもらえないことへの不満、叙情たっぷりのポエム、どこかのサイトの記事のシェアなど、良くも悪くもあらゆる情報がリアルタイムに更新される。RSSフィードならば、記事を後からまとめ読みすることもできなくはないが、TwitterFacebookともなると、過去の情報はタイムラインの下へ下へとどんどん押し流されていくため、後からまとめて読むのが面倒だ。ニュースアプリともなれば、そもそも「後からまとめて読むもの」としては設計されていないだろう。例えば、Yahoo!ニュースはあとからまとめ読みができるが、Smartnewsは政治のタブや経済のタブなど、それぞれのタブにタイル表示される記事は時間に応じてどんどん変わっていくため、過去の記事を読むのには向いていない。もしも過去の記事を読みたければ、GizmodoならGizmodo、東洋経済オンラインなら東洋経済オンラインというように、それぞれのサイトを訪問する必要がある。もっともそこで読むことができるのは、それぞれのサイトごとの過去記事であって、他のサイトの過去記事を読みたければまたそのサイトを訪問し…ということになってしまう。

 ある問題があって、それを解決するのに必要な情報がまさに必要なタイミングでもたらされるためには、情報を共有するタイミングが重要だが、ある人が今日共有した情報が、他の誰かにとっては昨日必要な情報であったり、或いは1年後に必要な情報であったりということは十分考えられる。ではそれぞれの人がそれぞれ必要なタイミングで、必要な情報をうまく入手できるためにはどういう条件が必要であるか。

 例えば私は今日、こんな記事をSmartnewsで目にした。

j-town.net

 タクシーを降りるとき、もしも忘れ物をした場合にタクシーの番号が特定でき、その忘れ物を届けてもらえるため、レシートは受け取っておいた方がいいという趣旨の記事である。私はこの記事を19時過ぎに読んだ。別の人は朝、或いは仕事の合間、或いは電車に乗っているときに読んだかもしれない。しかしまさにタクシーに乗っているときにこの記事を読んだ人間はかなり少ないだろう。この記事がもっとも役に立つとき、つまりタクシーを降りる直前に、この記事のことを思い出しやすくするためには、タクシーに乗っているときにこの記事を読むのが最適であるにもかかわらず、である。

 ネットで公開されるそれぞれの記事をいつ読むかということは個人の選択の自由であるから、もちろんこの記事もいつ読まれるかは自由である。各自が時間のあるときに読めばいいだろう。しかしその一方で、それぞれの情報には知られるべきタイミングというものがあることも確かである。各自の選択の自由に任せておいて、タイミングがうまく合う保証はない。冒頭に「ネットであれば解決する問題とも限らない」と書いたのは、ネットであれリアルであれ、情報の入手とそのタイミングは各自の選択の自由に委ねられているからだ。自由であればよいというわけではない問題もある。タクシーのレシートを受け取っておくべきという内容の記事の場合、それをベッドで寝転んで読もうが電車の中で読もうが、彼女がトイレに立ったレストランの席で暇つぶしに読もうが、それは各自の自由だと考えるよりも、タクシーでレシートを受け取らず、かつ忘れっぽい人間は一律に「タクシーに乗っているとき」にこの記事を知った方がいいだろう。忘れっぽいというのは、「タクシーの中にものを忘れてしまうような」という意味だけでなく、「まさにこの記事を必要なタイミングで思い出すことが苦手な」という意味もある。

 ネット上の様々な情報について、それぞれの情報が閲覧されるべきタイミングを機械学習で学習させ、分類器で属性ごとに分類し、タイミングを分散させるというアイデアが浮かんだ。本が優れているのは、家にいれば必要なときにいつでも手にとって閲覧(ブラウズ)できるからだ。「確かこれについてはあの本に書いてあったな…」ということがわかりさえすれば、その本を手にとって必要な情報を見つけ出して活用することができる。ネットともなるとそうはいかない。Evernoteにどんどん記事を保存する人もいるが、必要なときに必要な情報を取り出すのに、Evernoteは本ほど最適化されてはいない。キーワードが思い出せればいいが、思い出せなければ該当記事はEvernoteの記事の海の中に沈んだままである。タグである程度の分類を行なっているとしたら、毎回毎回タグの分類を行う手間が生じる。それを手間と考えない人間ならばそれもいいだろうが、万人向けではないことは確かだ。タグの分類基準が変わることもある。

 そういうわけで、やはり機械学習の技法に習熟して、情報と時間の関係を最適化した仕組みを作ってしまう方が効率がよいということになりそうだ。

クリスマス

 久々の投稿になる。前回の投稿から何冊か本を読んだり、考えたりしたこともあったが、特に文章にしたりはしないまま、27歳だった私は誕生日を迎えて28歳になり、気づけばもうクリスマスである。

さて今年のクリスマスイブは去年とは違い、あえて仕事を休んだ。休みをもらうとき、「彼女?」と勘繰られたりもしたが、そういうわけではない。Twitterでもつぶやいたが、恋人でもいないと仕事を休めないのかと思わないでもない。私の場合、個別指導の塾で中高生を相手に授業をしており、この時期ともなると中学や高校は冬休みに突入している。だから通常授業に加えて冬期講習が入ることもあるし、とりわけ受験生ともなると、年末年始の時期は重要だ。そんな中でクリスマスイブに休みとはなんたることか、という考え方もないではないが、私はそれでもあえて休みを取った。

 去年は普通に仕事を入れていて、いつもよりも早い時間帯から授業をしていたと思う。そしていつものように電車に乗り、特にケーキやチキンなども食べずに、なんとなく「クリスマスだなぁ」としみじみ思いながらTwitterを眺め…という、そんなクリスマスだったように思う。

 今年はといえば、特にクリスマスに予定はなく、強いていえば日曜だったので、青山のBLENZコーヒーで読書をしながら来るはずのない人を待とうかと思ったりもした。クリスマスの一週間以上も前からそう思っていたが、結局実行せず、私は特にどこへも出かけなかった。夜になってから近くのコンビニへ行ったくらいのもので、クリスマスプレゼントなども特に買わなかった。

 しかしそれでも、数日前にAmazonで注文した洋書のうちの1冊が12月26日に届くことになったというメールを受け取っており、強いていえばそれが1日遅れのクリスマスプレゼントと思うことにした。恋人でもいればもう少し違った気分で過ごすことができたのかもしれないが、何しろ今の自分には出会いなど全くない。何より経済的には未だに自立すらできていないのだから、恋人よりも先にまずはどこかの企業に正社員として就職し、奨学金の返済や年金を払ったりしなければならない。

 

さて、もう26日だ。今日は12:00から授業があるため、10時には家を出なければならない。それまでに洋書が届けばいいのだが…。

 

視力

 比喩的にも文字通りの意味でも、目の悪い自分に比べれば、作家や画家やアニメーターや、映画監督やデータサイエンティストといった人たちの目の方が、何かについてよほどよく見えているんじゃないかと感じることがある。

 たとえば自分に見えている「東京」よりも、こういう人たちの見ている「東京」に触れる方が、東京がよく見えるのではないか、と。

 その一方で、目が良くなりたいという願望も消えず、「この人の目は良いに違いない」と自分が信じられる人のその「見え方」を、よく考えるようにはしている。何を見ているのか、何をあえて見ないのか、どんな角度から、どんな位置から、どんな範囲を見ているのか、網膜には何が写り、脳には何が映るのか。網膜には100の事柄が写っていても、見え方の型を身につけた人は、見るべきところだけを選択的に見て、それ以外はあっさりと無視する。見方にメリハリがあるといってもいい。

 また、しゃべったり書いたりすれば、その人が何を見たのか、何を聞いたのか、どんなことを感じ、考えたのかは、ある程度はわかる。

 昨日は大崎駅の近くにある、スタバとツタヤが併設されている書店で、森見登美彦『聖なる怠け者の冒険』を買った。帯に「三年ぶり待望の文庫化!」とあるので、この作品は2013年のものだ。当時の森見さんは何を見ていたのか。それは作品をよく読めば見えてくるはずだ。そこにどんな問題が見えるか、どんな京都が見えるのか。或いはどんな人間の姿が見えるのか。

 自宅に帰って読んだWIREDの記事には、Googleで働いてたトーマス・ミコロフが自然言語処理の革命的なアルゴリズムであるWord2Vecを開発し、そのコードを一般公開したのが2013年だということが書かれていた。これも2013年。一方では世界中の情報を整理して誰にとっても使い易いものにしようとするGoogleで働くミコロフが言葉をプログラムとして眺め、他方では京都を舞台に作品を描き続けている作家の森見登美彦の書いた若手社員の冒険の物語が単行本になっている。両者のあいだには、一見したところなんのつながりも見えない。けれどもどちらも、言葉を介して同じ年に表現されている。また彼らに限らず、2013年に生きていたそれぞれの人が、それぞれの関心に沿ってものを見て、何かを表現している。あるいはしつつあるということもあるかもしれない。或いはできずに悶々としているかもしれない。自分に見えているものをうまく表現することは、今でも難しい。

 最近はデザインやユーザーインターフェース、或いはインフォグラフィックに関する本を少しずつ買っている。Googleとは別の検索エンジン、或いはポータルサイトのようなものを作ろうと思い続けて今日に至っているが、それはどう表現すればいいのか、なかなかはっきりしないままだ。それは見えてはいるが、表現が難しいのか、それともそもそもよく見えていないのか。おそらくは両方なのだろう。よく見えておらず、しかも表現するための技術も今の自分にはない。なかなか困った状況だ。それでも誰かの書いた文章を読み続けることによって、色々な人の見ているものに触れ、インスピレーションを得ようとしている。

非父論

 道徳論を声高に主張する女性が抱く父へのイメージというのが、大体似通っているということを経験的な直観としてもっていたのだが、阿川佐和子さんが最近『強父論』という本を出しているのを書店で見て、ますますその直観に対する確信を強めた。

強父論

強父論

 

 

つまり、「強くて怖くて、でもやさしい父がいないから世の中おかしいんだ論」というジャンル。

 こういう主張をする人間は何も女性に限らないし、あまり言い募れば偏見の謗りを免れないのかもしれないが、その一方で道徳にうるさい女性が持っている父のイメージについては実際その通りではないかという印象が拭えない。そしてその傍証は次々と目にすることになる。もちろんこの発見の過程には私の確証バイアスが関わっているだろうし、いまこうして記事を書いている最中に記憶から思い出されることについては利用可能性ヒューリスティックが関わっているということもいえるだろう。

 また、何か問題があるときに「道徳的にはこれが正しい!そして後はそれをバシッと言えるリーダーシップの強い男らしい人間がいればよい」という論の立て方をしている人は、何も阿川さん個人に限らない。その意味では、上のような私の書き方は阿川さん個人への過度な責任転嫁をするつもりはない。単にそうした考え方をもっている女性の一人に阿川さんが含まれるのではないかと考えているだけだ。そしてちょっと注意深く見ていれば、そこかしこに同じ類型の論者を見つけることができる。

 しかし、そういう論じ方になってしまったらおしまいだと個人的には思う。道徳的に何が正しいのかなど、大抵の人間は一々言われなくてもわかっている。わかっていながらそれでもやっぱり問題を起こしてしまうわけで、「ではどうするか」というところから考え始めなければ話が前に進まない。

 「人を殺してはいけません」と恐くて優しい父が言えば殺人がなくなるほど、物事は単純ではないし、そんなことで解決した気になっているのだとすれば、人間をなめすぎだとさえ思う。「簡単ではない」とか「単純ではない」という表現は厄介で、本当はそうではない問題すら無駄に複雑にしてしまう危うさがある。そういう危うさには注意しつつも、依然としてやはり怖くて優しい父という主体に寄りかかりすぎであると私は考える。

 そもそも「父」的なものの典型的なイメージは、女性の社会進出と男女平等が制度の面でも社会通念の面でも前進*1し始めるより前の産物であって、その後はフェミニズムの潮流が生まれ、それに対するアンチフェミニズムも生まれ、最近ではいわゆる「LGBT*2もあったりで、時代錯誤感が否めない。

 性の認識について社会が変化した今、阿川さんが育てられたころとは状況がずいぶん異なり、もはや社会で起こる問題の責任を、父だけでは支えきれない。

 ちなみに私はこの本『強父論』を読んでいない。そもそも読む気になれない。おそらくは阿川さんの恐くて優しい父と、阿川さんの感動のエピソードがてんこ盛りなのだろうと思う。もちろん感動一辺倒ではないかもしれない。阿川さんの反抗期があり、そして後になって、父の厳しさや怖さの意味、その奥に潜む優しさに気付く…というような、そういう展開なのではないかと推測している。それを裏付けるためだけに読むくらいならば、はなから読みなどしない。裏切られるのであれば喜んで読むが、どうも裏切られる気はしない。私が何より違和感を感じるのは、そういう父に育てられた阿川さん自身が、一人の女性として父と同じ役割を担おうという意識がないのではないかと思われるからだ。本当に男女平等を考えるなら、女性が自分で何を担うのかということを書かないと、現代の性認識からは乖離しているように思えるのである。私が『強父論』を読まず、ここで勝手に推測した以上の「何か」が、この本の中で語られているという「期待」が持てないのだ。実際にそうか否かということは問題ではない。どんな本も、読む前の「期待」によって1ページ目、2ページ目…そして30ページ、100ページと読み進めるかどうかが決まるのだから。

*1:ここで「定着」とか「浸透」とか「普及」という言葉でなく、「前進」という表現を使ったのには理由がある。社会を見ていると今でも女性の社会進出が十分とは思えないし、男女差別は依然として存在しているからだ。しかしそれでも、前進はしているのではないかというのが私の認識である。

*2:LGBT」という言葉については、自分は違和感を感じている。この4文字で名指されるような人々が、「普通ではない」ということを暗に示していると感じるためだ。「LGBTの人々の立場」とか「LGBTの人々への配慮」という表現に、私は強い不信感を禁じえない。それはそう主張する人間の、「私たち普通の人々が、普通でないあなたたちもちゃんと認めますよ」というポジションを無自覚に宣言したものであるように思われるからだ。LGBTという表現の前に「いわゆる」という表現をつけたのもこうした理由による。