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文章の文法をもとめて

 Twitterに投稿したつぶやきをもとに記事を作ろうと思う。テーマは言葉の単位とそのルールについて。

 ある公式を使って問題を解けるかどうかは、根気よく学び続けられるかどうかという意味で「練習」の問題だが、まだ証明されていないことがらを証明して新たな公式を作るのには別の何かが要る。一般にそれは「創造性」などと呼ばれる。

 ある文について、それが正しく構成されているかどうかということは文法に照らして判定することができる。けれども文よりももう一つ上の単位である「文章」については、それが正しく構成されているかを判定する論理的な手続きが見当たらない。ここで「存在しない」ではなく「見当たらない」という表現を用いたのは、それが実際には存在しているかもしれず、単に私がそれを知らないだけである可能性があるためである。また一般に、何かが「存在しない」ということを示すのは難しい。

 文に関しては、句構造規則に沿っていろいろな操作を施すことができる。別の語を加えたり、語順を入れ替えたりするといった操作を有限回行うことで、あらゆる文が生成できる。試しに次の文を考えてみよう。なお、日本語の文法について私はあまり知らないので、馴染みのある英語の文法に沿って考えてみることにする。日本語の文法の方が理解しやすいという読者には申し訳ない。

文A:私は山田太郎である。

文Aの主語「私」を「吾輩」と入れ替え、補語「山田太郎」を「猫」と入れ替えるだけで、

文B:吾輩は猫である

という別の文を生成することができる。こうして私は、自分の生成した文から、別の誰か、この場合は漱石が過去に生成した文を生成することができた。これと同様にして、私は文Aから有限回の操作によって任意の文を生成することができ、シェイクスピアだろうとドストエフスキーだろうと村上春樹だろうとそれは生成可能だ。文を変形して別の文を生成することはあまりないから、村上春樹の生成する文を私が作るのには「練習」が必要だろうが、論理的には可能であると思われる。それはつまるところ、有限回のステップのうちに収まる文の変形操作のアルゴリズム(手順)を見つけられるかの問題に過ぎない。

 また文Bは単に「文」であるだけでなく、本のタイトル(夏目漱石の小説の題名)でもあるから、一つの名詞として使うことができる。つまり

文C:あなたは [n](名詞)を読んだ?

という疑問文の[n]の部分に「吾輩は猫である」という文(文B)を代入することができる。また、自動詞「である」を他動詞「を許す」と入れ替えると、

文D:私は山田太郎を許す

という文が作れるし、動詞「許す」をその否定形である「許さない」と入れ替えると

文E:私は山田太郎を許さない

という、文Dとは反対の意味を表す文を生成することができる。

 このように、文の単位では、その内側で語や句や節といった部品がどのように並ぶかということに関して、一定の統語的な規則が存在する。日本語の場合は英語やフランス語などや中国語などの外国語に比べて統語的な規制がゆるいため、自然言語処理においては、チョムスキーの手による句構造文法よりも、フィルモアによる格文法を用いて考える方が扱いやすいそうだ。

 文章の生成については、「文章作成法」とでも呼ぶべき分野が古くから存在していて、ビジネス文書や小説の書き方から、最近ではブログの書き方に至るまで、いろいろなものがあるが、どれも科学的ではなく、著者の個人芸の域を出ないものが少なくない。三島由紀夫*1谷崎潤一郎*2野口悠紀雄*3本田勝一*4、或いは古くは空海の『文鏡秘府論』など、多くの著名な人物がそれぞれに文章の書き方、構成法について説いているが、それらは現実の文章がどのようなルールによって構成されているかということを説明するものではなく、この意味では文法ほどの形式化は進んでいない。或いはもう少し別のもので言えば『理科系の作文技術』*5や『日本語のレトリック』*6といったものもあるが、やはり文法ほどの形式化はなされていない。レトリック(修辞学)というのは、文を操る技術という意味では文章を外から規定する形式といえなくもないが、文にとっての文法の関係と、文章にとってのレトリックの関係は同じではない。

 Twitterのツイートやブログでの情報がデマ(誤情報)であるかどうかを判定する方法に関する、自然言語処理の分野での研究*7がある。これはある一定量の文ないし文章について、その属性を判定するものであるが、これは手がかりになりそうだという気がしている。

 またこの研究とは別に、『文体の科学』*8という本を読み始めた。いかにも自分が考えたいことにぴったり当てはまる内容ではないかと思いながら読み進めているが、どうも少し違うような気がしてきた。ここで読み続けるかどうかという判断を迫られている。一応読みきろうと思う。

 

【追記】

『文体の科学』は途中で読む気が完全に失せてしまった。ちっとも科学になっていないからだ。もとになっているのが雑誌の連載という事情があるにせよ、タイトルと中身の齟齬が大きい。速読とは読むべき本とそうでない本とを素早く区別するための方法であるとするならば、速読が役に立ったと言えるかもしれない。少なくとも今の自分の問題関心では読むべきでないと感じた本に、それ以上の時間をかける気にはなれない。

 

*1:

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 

 

*2:

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 

 

*3:

「超」文章法 (中公新書)

「超」文章法 (中公新書)

 

 

*4:

日本語の作文技術 (朝日文庫)

日本語の作文技術 (朝日文庫)

 

 

*5:

 

*6:

日本語のレトリック―文章表現の技法 (岩波ジュニア新書)

日本語のレトリック―文章表現の技法 (岩波ジュニア新書)

 

 

*7:鳥海不二夫、篠田孝祐、兼山元太「ソーシャルメディアを用いたデマ判定システムの判定精度評価」[2012]

*8:

文体の科学

文体の科学

 

 

一度通った道が見つからないということ

 日曜日の夜だ。京王井の頭線の改札近くのスタバで英語の文法の勉強をしていたのだが、途中からなんだか眠くなってきて、パソコンを開いた。ちょっと最近考えていることを書いてみようと思う。インターネットと記憶について。

 インターネットを使って何かの記事を読んだ後、しばらくして同じ記事を再び読み返したくなることがある。「そういえば最近そんな内容の記事を読んだな…なんてタイトルだったっけ?」と思い、それらしい単語を検索ボックスに打ち込んでみたり、FeedlyEvernoteに保存してないか確認したりしても、肝心の記事は見つからない。

 一度通ったことのある道なのに、再び同じ道を通ろうとしても違う道になってしまうという経験をしたことはあるだろうか。私は家の周りや出掛けた先の街で、あちこちを歩き回ってみるのだが、一度通った道をなぞろうとして、結局は以前とは明らかに違うところへ行き着いてしまうということがある。もちろん職場と家の間で道を間違えるなどということはないし、お気に入りの書店や喫茶店へ行く道を間違えることもない。そういうコースを辿るときは、一度目と二度目の間にあまり時間差がなく、その後も反復する回数が多いからだ。やがて道を完全に覚えてしまう。そして何も考えていなくてもその道を初めから終わりまでなぞることができるようになる。

 インターネットでも新聞でもいい。私が目にする記事の多くは、何度も読み返すということはほとんどない。だから、最初に読んだ時には内容を覚えていても、時間とともにそれは色あせてしまって、次にその記事を必要とするときになって、簡単に見つけ出すことができないのだ。それらは私の外側にあって、私の体と一体化していない。自転車に乗るように記事を使いこなすようなレベルには達していないうちに、私は記事を忘れてしまう。

 最近Twitterの使い方を変えてみた*1。しかしタグを活用しても、私は特定の使い込まれた知識を瞬時に思い出すことと比べると、まだまだタグ付けされた情報を使いこなせている感じがせず、どこかもどかしさを感じる。何より、使いこなされた知識というのは、どんどん使いやすく変化していくが、ツイートに付けたタグとツイートの内容は変化しない。一度投稿してしまえば、1年後も3年後もずっとそのままだ。まるで私の考え方はその間で何も変わっていないかのように。ブログやFacebookであれば、一度投稿した内容を後から書き換えることができるから、使いこなせている知識と同様に柔軟に変化させていくことができるが、Twitterのツイートではそうはいかない。ツイートを削除することはできても、内容を後から変更することはできない。それはある意味では、文を書くことに慎重になるという効果をもたらすけれども、私の頭の中にある知識の体系を改良していくことには向かない。

 同じことを何度も何度も繰り返し再現することによって、記憶は記憶たりうる。再現できなくなってしまったら、もう記憶ではない。私の頭の中にある知識はいつでも手軽に思い出して使うことができるけれども、ネット上の情報はそうはいかない。もちろん私はほぼいつもiPhoneを持ち歩いていてネットが使える状態ではあるが、頭の中にあることを思い出すようにネットを使うことはない。

 すっかり目がさめた。ディスプレイのバックライトのせいだろうか。或いはタイピングという手の運動のせいだろうか。英語の勉強に戻ってもいいのだが、その前にこの記事を書き終えたい。

 何か覚えたことを再現するとき、単に頭の中で思い返すというだけではなくて、私は手を使ったり足を使ったり、身体を同時に使っていることが多い。フォン・ノイマンやマリリン・ボス=サバントのような天才であれば、ただ頭の中で思い浮かべるだけで覚えたことを自在に使いこなせるようになるのかもしれないが、私の場合はそうはいかないことが多い。問題集を使って問題を解きながら、覚えたことをどう使うか考えたり、実際に道を歩いてみたり、誰かに説明してみたりすることによって、そして何より、そういうことを反復することによって、覚えたことを有用な知識として定着させることができる。

 記事の内容を覚えても、私はたいていの場合、その内容を身体を使って再現することがない。たまには誰かにその内容を説明することもあるが、20本の記事を読んで1本あるかないかという程度の割合でしかない。残り19本の記事の内容は忘れられていって、誰かに説明した1本の記事の方も、やがて忘れられる。私の脳内のシナプスは、それらの記事の内容を再現することができなくなるのだ。

 私はもう何年も、紙媒体の新聞を購読していない。たいていはネットで記事を読んで済ませている。だから私にとって「記事」といえば、紙媒体で購入している雑誌のそれか、大部分はネット上のそれを指す。どちらにしても、私の身体とあまり結びつかないまま私の頭の中から消えていく。

 私の家にある紙の本たちは、必要に応じていつでも読み返すことができる。それは物理的にそこにあり、読み返せば以前にそれを読んだときの記憶が微かであっても蘇り、私の知識の体系は変化していく。ネット上の記事に紙の本と同じような「見つけやすさ」を与えることは、未だに実現されていない。Googleは1998年に誕生してからもうすぐ20年が経つが、未だに私の家の本の調べやすさには及ばない。情報が膨大すぎて、いくら索引をつけても一向に見つからない情報だらけなのだ。瞬時に見つからなくてもよい。0.1秒台で100万件の「関連する」記事を一覧にして表示されても、3分かけて「私が探していた本は確かにこれだ」にかなわない。

 一体何が足りないのだろうか。

 

参考:

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

学びとは何か――〈探究人〉になるために (岩波新書)

 

 

 

 

 

言葉と行動

 言葉ではなんとでも言える。けれど人間は、言葉ではわかっていても行動できないことが多い。言葉と行動とはそれほど密接につながってはいないからだ。ToDoリストやタスクリストを作ったり、予定表に書いたり、他人に宣言したりしても、行動できないままの人はいるものだ。親と子のやりとりでもこの点で衝突が起こったりする。

 

親:どうしてもっと勉強しないの?受験生なのに。

子:うるさいなあ。そんなことはわかってるよ。

 

という風に。人間はわかっていても行動できないままなのだ。わかっているけどできないまま、或いは「わかっちゃいるけどやめられない」というやつだ。おそらく上の親子のやりとりは戦後に始まったものでもなく人類がずっと昔からいろいろな地域や状況で繰り返してきたことだろう。それでも一向にこのやりとりの不毛さから抜け出せないままでいる。がんは未だに克服できない病だが、この不毛なやりとりよりはがんの方が先に克服されるのではないだろうかとさえ思う。こういう不毛なやりとりというのは他にもまだまだたくさんあるだろう。

 

 カマキリは交尾を終えると、メスのカマキリがオスのカマキリを食べてしまう場合がある。いわゆる「共食い」(cannibalism)である。これは何も、メスの好物が紅玉りんごでも黒毛和牛でもなくてオスだからというわけではない。リアル「食べちゃうぞ♡」でもない。或いは交尾があまりにも苦痛で、オスへの怒りが爆発して…ということでもない。産卵に必要な栄養をオスの個体を食べることで摂取するのだ。もっとも「場合がある」という表現に注意してほしい。中には交尾の後でメスから食べられるのを逃れるオスもいるそうだ。オスも自分の命は惜しいと見える。 

 またある種のシロアリ*1は、集団で生活する社会性昆虫であり、自分の属する集団に危機が迫ると、自分の体をひねって体を破裂させ、体内に含まれる毒物を周囲に撒き散らして敵を殺害し、それによって集団を守る。人間の感覚でいえば「自己犠牲の精神」というところだろうか。

 どちらの例でも、そこに言葉は存在せず、ただ具体的な行動があるのみである。ああだこうだと言い訳もしない。ただ人間だけが、言葉に頼って行動から遠ざかっているようにすら見える。言葉は便利だ。記録できるから後から振り返ることもできるし、その場にいない相手に自分の思いや考えを伝えることもできる。アリだってフェロモンを通してコミュニケーションをしているのだ。また自分の考えをまとめることにも役立つ。だが一方で言葉は、行動から遠ざかることに一役買っている面もある。なにも職人的に黙って行動で示せというわけでもないが、言葉の使い方には気をつけたいと改めて感じた。

 不毛なやりとりは、文字どおり不毛であることがわかったならば、口を閉じて行動するだけだ。その点では人間よりも他の動物の方がよほど立派だと思う。

 

参考記事

[1] 共食いについて:共食い - Wikipedia

[2] シロアリについて:

karapaia.livedoor.biz

 

*1:正確な学名は「Neocapritermes taracua」

「拝啓、いつかの君へ」とマイケル・サンデル

 先日、バイト先の塾の校舎でマイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』のことが話題に上った。「上った」と言っても、話し相手の口から「あの本は面白いですよ」というセリフが出てきたというくらいのもので、私はといえば、その会話以来、「正しさ」ということについて少し敏感になっているように思う。こういう他愛もない会話が自分の基本的な「気分」を作っていることに、案外気が付かないまま過ごしているものだ。

 またそれとは別に、最近終了したドラマ「ゆとりですがなにか」の主題歌、感覚ピエロの「拝啓、いつかの君へ」の中で、「あんたの正義は一体なんだ?」という挑むような表現がある。最初にこの曲を聴いたときには、「何だか青臭い主張だなぁ。」くらいにしか思わなかった。それから少しして、自分の感じた「青臭さ」の正体について考え直してみた。ロックで何かに反抗するなら、もっと深い反抗、もっと深いロックをしてほしい。この程度のナイフじゃ何も切れない。思索性のない薄っぺらい人間からのあふれんばかりの称賛を得たって、切れ味が増すわけじゃない。「そんなに愛想笑いがうまくなってどうするんだい?」と挑発的に言われたって、愛想笑いする人間が救われないことの方が多いんじゃないかと思う。外野からカッコつけて批判しても、「それでも媚を売ったり、それでも謝ったり、それでも我慢し続けている私の思いについて、一体あんたに何がわかる」ということにしかならないんじゃないか、と。内野の人間の思いはもっと複雑なんじゃないか。この曲についてのネットでの反応を見ていると、中高生からの称賛が多かった。つまりは外野の人間たちだ。

 さっき聴き直してみると、今度はサンデルの方の思考と結びついてきた。歌詞をもう一度見直してみると、「AとBの選択肢 突如現れた狭間に あんたの正義は助けてくれるのかい?」というのがある。「あんたの正義」というのは、よく言われる言い方で言い換えるならば「自分にとっての正しさ」というところだろうか。

 自分にとって正しいという感覚が、みんなにとっての正しさとしての「正義」と合致するかどうかはわからない。もしも二つが一致しなかったら、「確信犯」(信念犯)として正義の側から法の裁きを受けることだってある。社会では、特殊な正しさと一般的な正しさとを比べれば、常に後者が優先される。そうでなければ社会は維持されないからだ。秩序とはそういうものだ。

 個人と組織は機能の単位が異なる。私の身体は一貫して機能しているが、組織という大きな身体ではそうはいかない。トップが方針を決めたところで、末端との間に齟齬が生まれる。トップの意思がすべてというわけにはいかず、常に個々人の間で調整が必要となる。だから組織には政治が生まれる。ヒトの身体の自律的な調整機構に比べれば、組織の機能の調整ははるかに難しい。心臓や骨格はそれぞれ自己主張などしないが、組織の場合はその内側で色々な個人が自己主張をしている。それぞれが個人的な「正しさ」の感覚を備えている。自分にとっての正しさが、他の誰かにとっての正しさと噛み合う保証はない。噛み合うこともあれば、ぶつかることもある。ぶつかってうまく解決することもあれば、しこりを残すこともある。私の身体にとっての正しさは常に「生存すること」であり、それは一貫しているが、集団にとっての正しさは個人の数だけありうる。そうして自由と秩序のバランスが問題になる。

目に映るものすべての景色変わって変わって変わって

淡々と進んでいく毎日にいつしか流れて流れて流れて

AとBの選択肢 突如現れた狭間に

あんたの正義は助けてくれるのかい?

(感覚ピエロ「拝啓、いつかの君へ」より)

 個人にとっての「正しさ」が公共性を確保するためには、なんらかの形で社会の側からの承認を得る必要がある。だからなんの成果も出していない個人の主張する正しさが公共性を得ることはない。Macintoshを生み出すまで、スティーブ・ジョブズの主張する「正しさ」を信じる人間が何人いただろう。しかし一旦それが世に出た後でなら、彼の主張する「正しさ」は力を持つようになった。それはiTunesという形で音楽業界に亀裂を生み、iPhoneという形で携帯電話業界に亀裂を生み、iPadという形でタブレット業界という業界そのものを生み出した。…と、こんな風に書くと、テック系の人間のジョブズ礼賛のようだが、ここでの主旨はそこではない。個人的な正しさが集団的な正しさとどう結びつくのか、ということだ。それは多数の人間からの同意を得ることによってである。多数決と同じだ。市場における投票を通じて、より一般的な正しさが決まる。正しさの一般性を自然に生み出す調整装置として市場は機能している。もちろん、市場原理による「正しさ」が「正義」と合致するとは限らない。むしろ合致しないのではないかという懸念を示したのがサンデルであった。

拝啓、いつかの君へ

自分の信じた正義なら選んで進んでみせてよ

拝啓、いつかの君へ

今ココにあるものすべて

 

「あんたの正義に覚悟はあるのか?」

拝啓、いつかの君へ

(同上)

 

 常に「生存」という正しさに従って機能する身体ほど明確に「正しさ」が決まるなら、人間はそれほど苦労はしなかっただろう。けれども人間は社会の中で生きる以上は、他者の正しさとぶつからざるをえない。自分にとっての正しさが、他の誰かにとっての正しさと矛盾しないでいられる保証などないのだ。

    それでは、自分にとっての正しさとどう向き合えばいいだろう。それは集団レベルで「正しい」とされることとぶつかるだけでなく、過去や未来の自分ともぶつかるものだ。いつかの自分にとっての正しさは、今の自分にとっての正しさと同じである保証はなく、今の自分にとっての正しさは、未来の自分にとっての正しさと同じである保証はない。未来の自分が後悔しないかどうかという視点で正しさを捉えるにせよ、あるいは「まだ純粋だったあの頃」(そんなものは幻想だと私は思うが)の自分の視点で捉えるにせよ、今の自分の視点で捉えるにせよ、自信が持てるかどうかは最終的には直観によらざるを得ない。それさえあれば安心できる、究極的な根拠などありはしない。

本当にこれで合っているのか。

本当にあの人にこんなことを言うべきだろうか。

本当に黒のポロシャツとジーパン風のジョガーパンツの組み合わせで合っているのか。

日常の様々な局面で「正しさ」が問われ続ける。

 

 

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

 

ハッシュタグで情報を減らす

 ネット上に色々な人が色々なことを書き込むようになればなるほど、そこから自分の欲しい情報だけを取り出すのは難しくなるというのは、すでに多くの人間が指摘してきたことだ。まとまった量の文章を書くことはできなくても、140字なら書くことがあるという人がたくさんいたからこそ、Twitterは今も続いている。

 自分のフォローしている人間たちの投稿に限定するのではなく、ある特定の事柄についてタイムラインを見ていくと、その流れる速さは凄まじい。次から次へと、たくさんの人間が同じようなことをツイートし続けて冗長であり、いちいち確認するのは時間の無駄でしかない。ストレスだ。

 情報の洪水の中で、検索エンジンがやっていることは、大量のウェブページを集めてきて、それをランク付けし、上位から表示する、これだけだ。上位のページに限定すれば、目にする情報を減らせるが、同じような内容のページが複数存在する場合はそれらをいちいちチェックして回る羽目になる。そして被った内容の文だけ時間を無駄にする。あるいはこれとは別に、自分の知りたいことについて、それにズバリ答える内容が書かれたウェブページがそもそも存在しなかったら、それになるべく近い内容のウェブページが並び、やはりそれらを複数チェックする羽目になる。ランク付けによって情報は減ったかもしれないが、まだまだ面倒だ。

 Twitterにはフィルタリングがほとんどないから、洪水のように情報が生まれている。同じ内容の記事を色々な人間のアカウントがハイパーリンク付きでツイートしているが、そのほとんどは読まれることはない。こんなのははっきり言って資源の無駄だと思う。もう少しうまい使い方を考えた方がいい。それは個人個人の心がけという話ではなく、プラットフォームがそういう無駄をなるべく生まないように設計されていることが望ましい。もちろん何をもって「無駄」と定義するのか、全ての無駄が本当に無駄なのかといえば話は別だが、もう少し無駄は減らせる。

  少し前から、私はTwitterの使い方にアレンジを加えてみることにした。自分のツイートについて、オリジナルのハッシュタグをつけることで、過去の自分の特定の内容のツイートだけを簡単に取り出すことができるようにしたのだ。例えばこんな風に。

「#HiroyukiF感情」という名前のハッシュタグは自分しか使っていないから、このタグ名で検索すれば、過去の自分のツイートだけが検索できる。アカウント名とおおまかなカテゴリー名をくっつけてツイートすれば、自分の過去のツイートについて、カテゴリーごとに検索できる。カテゴリーの数が増えてもそれを自分が忘れてしまう心配はない。こうすればいいからだ。

「#HiroyukiF」で検索すれば、他の全てのタグ名を含むツイートがヒットするから、これでタグ名をいちいち全て記憶していなくても問題ない。ハッシュタグは濫用されている感があるが、情報を整理するためにもっと面白い使い方が出てこなくてつまらなかった。この使い方がそれほど「イケてる」とは思わないが、濫発よりはまだ面白いと思っている。

 もちろんこれでは自分のツイートしか検索できず、他者の考えを記した文章を簡単に調べられるようになるわけではない。だから情報の洪水問題は根本的に解決したわけではない。けれども、自分というフィルターを通して情報の洪水に向き合ったら、何のフィルターも通さないよりもベターな結果が得られる。単にGoogleだけを利用するよりも、一度は自分が関心をもったことに限定して情報を検索した方が、自分の知識との結びつけが楽だ。情報を減らすために、とりあえずはTwitterにどんどん投稿し、それを後から簡単に検索できるようにすれば、より自分の記憶に近い形で自分の記憶を外部化できる。

 このはてなブログという場も外部記憶のひとつだけれども、私の記憶は全て文章にまとめられているわけではない。FeedlySmartnewsで気になった記事、適当にGoogle検索したらたまたま見つけた面白いウェブページ、知人友人から教えてもらったウェブページなどを、一旦はTwitterに通して、Twitter経由で後から参照する。Evernoteを活用するなど、もっとうまい方法はある気もするが、さしあたりこれでいってみようと思う。Evernote自体は他者との共有を前提としていないから、ネットの利点が活かせないのだ。

 

 私の暫定のサーフボードは、「ユニークなハッシュタグ付きの投稿」だ。

何かを思い出すということ

 何かを思い出すこと、つまり記憶の想起には、目的に沿ってなされるものと、そうでないものの二種類がある。例を挙げると、微積分の問題を解くために記憶に頼る場合は前者、道を歩いていてふと懐かしい匂いがしたときは後者である。前者は合目的的、後者は無目的的あるいは反射的である。

 Mr.Childrenの曲で「Another Story」というのがある。私はこの曲を大学1、2年の頃によく聴いていて、それを聴きながら歩いた道の記憶や、それを聴くとついつい思い出してしまう「あの日」や「その日」の記憶というものがある。つい一昨日、私は久々にAnother Storyを聴くと、私はそれらの記憶を想起した。それを思い出すことで、特に何かをしたかったわけではない。ただ思い出すために思い出したという方が当たっているように思う。別の目的のためでなく、あたかも思い出すこと自体が目的であったかのようだ。

 合目的的な記憶の想起の場合、私は記憶に対して能動的にはたらきかけているように思える。想起の主体は私の意識であるように思われる。一方で無目的的な記憶の想起の場合には、記憶は単に「思い出される」のであって、受動的である。私がそこにはたらきかけるまでもなく、それは自然と思い出されるのだ。想起の主体は私の意識ではなく、無意識の方にありそうだ。

 それでは、何かを思い出そうとして思い出せず、検索エンジンを使ってその詳細を明らかにしようとする場合はどちらなのだろう。必要な知識を引き出す役割を担うのは、私の意識でも無意識でもなく、検索エンジンアルゴリズムである。だからこれはそもそも「想起」ではない。人間にとって、何かを覚えているということは、いつでもそれを思い出すことができるということであって、思い出せないものは存在しないといってよい。なぜなら、人間の記憶は、何かメモ紙に書き付けた電話番号のように「実体をもつもの」ではなく、思い出すたびに脳内で特定のニューロンが特定のパターンで活性化することによって「構成されるもの」だからである。音楽をダウンロードしていても、それを再生しなければ音楽としては意味をなさないのと同様、記憶は使うときに再生されなければ意味をなさない。記憶は動的な存在である。

 アルゴリズムは改良され続け、最近では機械学習が導入され、これまで人間が行ってきたことが、どんどんコンピュータの手に委ねられるようになってきた。生まれてからの年月を考えれば、人工知能は人間に比べてまだまだ若輩者である。人間ができることを人工知能の手に委ねるということは、会社の比喩でいえば、中堅社員から新入社員への裁量の移動と捉えることができる。新入社員はどんどん成長する育ち盛りなのだから、いろいろな仕事を振って成長の機会を与えよう、と。

 人工知能も技術のひとつである。マクルーハンがすでに指摘したように、人間は技術を利用することによって、技術に代替された能力を衰えさせてしまう。車で移動する者は歩いて移動するものよりも足腰が弱くなるし、手で書く代わりにキーボードで書く者は、手書きの字が汚くなってしまう。任せたことで、安心してしまうのだ。

 先日、プログラミングで自分の仕事を自動化した社員が、しばらくは給料を受け取っていたが、ついに解雇され、解雇されたときにはプログラミングのやり方さえ忘れてしまっていたという記事*1を読んだ。自分の成果によって自分を衰えさせてしまうとはなんとも皮肉であるが、私にも似たような経験はある。誰にでもこういう経験はあるのではないか。

 この筋でいくと、何かを思い出すことを機械に任せるようになると、私たちは自分の力で思い出す能力を衰えさせてしまうことになるだろう。しかし、果たしてそれだけだろうか。何かを思い出すということは、それ以上の意味を持っている。

コンピュータの学習と人間の直観

 以前にも似たようなことを書いたことがあったけれども、人間はコンピュータとは違い、さいころを100回も1000回も振らなくても、それぞれの目が出る確率を6分の1だと見抜くことができる。これは直観のはたらきだ。直観というのは、すべてのデータを集めなくても、より少ないデータからすべてのデータにフィットするような規則性やパターンを見抜く能力である。これは今の所、コンピュータよりも人間の方がすぐれている。それは二段階の意味でそうだ。まずはコンピュータには問題を正しく定式化することが難しい。人間の手によってデータを適切な形に成形しなければ、コンピュータはデータを扱うことができない。そして次に、成形されたデータを使ったとしても、コンピュータがデータの背後に潜むパターンを見抜くには数千とか数万、場合によってはもっと多くのデータが必要だ。どちらも直観のはたらきに関わるが、そのいずれにおいても今の所は人間の方がうまくやってのける。

 コンピュータの演算能力と記憶容量が拡大を続けるにつれて、直観を軽視するような風潮が生まれているように感じる。少量のデータでは偏りがあり、どうせすべてのデータを使っても短時間で計算できるのだったら、すべてのデータを使ってパターンを探したほうがいいじゃないか、と。これが最近はやりのビッグデータ機械学習の根底にある態度であるように思われる。ディープラーニング(深層学習)は人間の脳のはたらきを真似るものであって、人間が持つ「概念」をコンピュータにも獲得させようとするものであるから、これは直観に近づくようなベクトルだといえそうだ。けれどもこのディープラーニングでも、概念を獲得するためには人間に比べて厖大な量のデータを機械に学習させなければならない。これでは「直観とはなにか」ということがわからないままだ。

 直観というのは、人間の記憶と関わっている。何を記憶しているのかということによって直観のはたらきは変わってくる。人間はものを考えるとき、頭の中にある「枠組み」(スキーマ)にしたがって考えている。スキーマは自分の経験によって獲得されていくもので、センスのいい人は少量の経験からより多くのスキーマを獲得することができる。このスキーマの獲得において、記憶というのが重要な役割をはたす。「そういえば以前にも似たようなことがあったな…」と思えるかどうかがスキーマ獲得の鍵なのだ。直観というのは、このスキーマに依存して決まる。これまでに他の誰も使わなかったスキーマによってある問題を捉え、答えを出すことができた場合に、直観がはたらいたといえる。

 ここで「人間はどうやって母語を獲得するか」ということについて考えてみる。人間は自分の母語について、まだ幼いうちに習得することができる。生まれてからほんの数年の間に子どもが出会う言語データは限りがあり、しかもその中には少なからず誤ったデータ(言い間違いなど)も含まれる。しかしそれにもかかわらず、子どもはどういう言い方は文法的に正しく、どういう言い方は誤りであるかをちゃんと学習することができる。誰か特定の人間が教師として付きっ切りでサポートしているわけではないにもかかわらず、である。誤りを含む偏ったデータから、正解をちゃんとつかむことができる能力というのは、何か直観のはたらきと関係があるように思える。あえてアナロジーを使うならば、人間は言語を獲得するために必要なスキーマを、生得的に持っているということがいえるのかもしれない。このように考えたのがチョムスキーであった。彼の場合は「スキーマ」という言葉ではなく、「普遍文法」という言葉を用いた。単なるアナロジーでなく厳密を期すならば、この2つは区別されるべき概念だろう。

 ディープラーニングは概念を獲得する。では概念とスキーマはどういう関係にあるか。一見すると両者は似ているようではあるが、概念が意識的に利用できるものであるのに対して、スキーマはむしろ無意識的に利用されるものであるという意味で、両者は異なるレベルに属するといえる。それではコンピュータはスキーマを獲得できるのだろうか。

 私が記憶する力、言い換えれば想起する力が、私の外にある技術の結晶たちによって代替されていくとき、私は直観さえも衰えさせてしまうことになりはしないか。テクノロジー脅威論を安易に主張する気にはならないけれども、ある技術がどういう効果をもつかということについては、とくにそれが人間の人間たる所以に関わる場合には、慎重に考えなければならない。

ウェブページの読みやすさは書き手が決めるべきか

 はてなブログでは自分のブログのデザインを色々と変更することができる。HTMLやCSSJavascriptのコードを使えば変更の幅は広がるが、私はデザインを変更するときにはテーマを変えるくらいのものだ。自分にとって一番読みやすいテーマを探しては、割と頻繁にテーマを変更している。

 この前「読みやすさ」ということについて考えていて、ふと思ったことがある。自分のブログのテーマは好きに変えられるのに、どうして他人のブログのテーマは変えられないのだろうか、と。せっかく面白そうなことを書いていても、残念ながらデザインが自分好みではなくて読む気が失せてしまうブログというのがたまにある。そういうとき、自分にとって読み易いようなデザインに変更できたらどれほど便利だろうか。

 自分が他人のブログを読むときだけ、一時的にそのブログのデザインを好きに変えられる「フィルター」のような機能があればいいのだ。例えばSafariのリーダー機能のように、広告を排除して読みやすいフォントでページの文章を表示してくれる機能があればいい。

 ウェブページの読みやすさは、書き手が決めるべきだとは、私は思わない。もちろん書き手は自分の作るページのデザインについても好きに設定したいという欲求を持っているかもしれないが、そこは紙の本と同様に、読み手にとって読みやすいスタイルに統一した方がいいのではないか。紙の本では、文章は縦書き、一ページに含まれる文字数や大きさも決まっている。それは書き手が口出しできる領域ではない。ウェブページの場合もそういう風になっている方が、私は便利だと思う。単に自分の好みでデザインを決めた結果、残念ながら読み手にとっては読む気を削がれる結果になってしまっていることは少なくないように思うのだ。

 …と、ここでこの記事を終わっていては、考えが浅いように思うので、もう少し考えを進めてみる。「読みやすさ」というのは、単に読みやすいということ以上の意味をもっていると私は思う。読みやすければ、内容が頭に入りやすく、したがって記憶に残りやすく、そしてそれを使って自分なりに考えるというところまでつなげやすいということだ。鎖はこのようにつながっている。読みやすい本は、再読しようという気にもなりやすいので、内容をより深く理解したり、確認したりするのにも有利だ。読みにくい本をわざわざ読み返そうという気にはなりにくい。ここで「読みにくい」というのは、何も旧仮名遣いのオンパレードだった昔の岩波文庫のような文章を指しているのではない。或いはその分野の専門家筋だけが理解できるようなジャーゴンばかりをちりばめた文章を指しているのでもない。そういう文章ならば、こちらの訓練次第である程度は読みこなせるようになるからだ。「読みにくい」或いは「見にくい」というのは、どこに何が書いてあったかを思い出しにくいということで、後から必要な箇所だけ取り出して読み返すということがしにくいのだ。

 私の頭の中に蓄えられている記憶は、私がそれについてあれこれ考えるのにしたがって内容がどんどん変わっていく。記憶は固定された情報ではなく、動的(dynamic)なものだ。なぜなら人間がものを記憶するということは、何か写真に像を焼き付けるということとは違って、思い出すたびにニューロンを発火させる必要があるという意味で「プロセス」を指すものだからだ。

 それに対してウェブ上の情報というのは、本来は書き換えが自由であるとされているが、実際には書き換えが行われることはあまりない。私自身、過去の記事の文章を読み返すことはあっても、書き換えることはほとんどない。読み返すとき、記事のタイトルの横には「編集」の文字があるけれども、そこをクリックすることはほとんどない。だからウェブ上の情報というのは、特定のページについていえば、固定された情報だ。読みにくさという点でいえば、すでに述べたように紙の本の方がはるかに読みやすいと思うけれども、「そこにある情報が静的か動的か」という点で言えば、ウェブ上の情報も紙の本も共通して静的(static)だ。

 固定された情報であるならば、せめて完成形が私にとって「思い出しやすい形」であってほしいと望まずにいられない。そういう形であることによって、情報が私の頭に移された後で、私にとってより好ましい形へとその情報を修正しやすくなるからだ。

 どんなウェブページも、書き手と読み手の両方がいて初めて成り立つものだとするならば、その読みやすさを必ずしも書き手の側が定める必要はない。読み手にとって読みやすいこと、その選択権は、どちらかといえば読み手の方に委ねた方がいいのではないかと私は思う。

天邪鬼と知性

 先日、アルバイト先で私が読んでいた本について、同僚とこんなやりとりをした。発言は正確ではないが、概ね以下のように進んだ。

 

同僚X:「○○さん、『ネット・バカ』読んでるんですか?」

私:「そう。この本が流行ったのは数年前なんだけど、そのときには何となく気にはなっていながら読んでなかった。以前からそうなんだけど、なんか世間で流行っているときには読んでなくて、流行る前か、流行って少し時間を置いてからしか読まないということが多いんだよね。」

同僚X:「あぁ〜、それなんかわかるような気がします。」

 

同僚Xが言おうとしていたのは、「逆張りの精神」とか「天邪鬼」とか言われる類のことではないかと思う。「世間がXだと思っているときに自分はYだと思えるかどうか」というやつだ。そういえば『ドラゴン桜』でも、桜木のセリフにそういうのがあった。

 私は天邪鬼にはなりたくないと思っている。世間では常識とされていることの反対に実は「正解」がある、というような言い回しは天邪鬼であることを正当化するような代物であるが、厳密にいえば天邪鬼は、なにが正解であるかを判別する「知性」と直接結びつくものではないからだ。

 なるほど確かに、世間が一般に不正解を選びがちであるならば、天邪鬼の人間は正解を導き出す賢者のごとく扱われることもあるだろう。何が正解かが自明ではない混迷の時代にあっては、大した考えもなしにただ天邪鬼的であるだけで、結果的には正解を選んだことになるということも頻繁に起こるだろう。「混迷の時代」という表現もまた、思考停止を招くようであまり使いたくはない表現だ。

 数字を使って具体的に考えてみよう。例えば世間は様々な問題に対して、80%の確率で不正解を出すものとしよう。すると天邪鬼の人間は80%の確率で正解を出すことができる。80%の確率で正解を出せる人間は、80%の確率で不正解を出す側の人々から見れば「賢者」とみなされてもおかしくはない。ではこのとき、天邪鬼の人間に知性があるといえるだろうか。

 私は天邪鬼であるよりも、自律した精神の持ち主でありたいと願う。「自律」(autonomy)というのは、他者がどう考えていようとも、それとは独立に自分の頭で何が正解であるかを考えられる性質を指す。仮にも大学を卒業した身としては、自律した思考を育むための訓練を積み、なおかつそれを錆びつかせないように磨き続けるような人間でありたいと思う。自転車のチェーンは、雨に濡れないように普段から気をつけていても、たった一回雨避けのカバーをかけそびれただけで、錆びてしまう。私の頭もそんなようなものだ。

 世間の大半の人間たちがAと言おうと、ただそれだけで条件反射のようにBを選ぶ天邪鬼ではなく、自分の頭で考え、それが正解と思うならAだということもBだということもある。それは世間の大半の人間がどちらを正解だと考えているかとは関係ない。そういう風に頭を使いたい。

 正解がみえにくい時代状況においては、ただ天邪鬼的であることが知性と結びつけられがちであるようだけれども、論理的には両者は本来、なんの結びつきももたない。それでも世間を見ているとネットやメディアでは批判のための批判や奇を衒うこと、目立つことばかりを考えて逆張りをしているだけであることがミエミエの、反抗期をこじらせただけのような人々がけっこういる。

   何気ない生活の中でも、自分のものの考え方のスタンスを問われる局面の連続であるということを改めて感じ、その緊張感を忘れないようにしなければとも思った同僚とのやりとりだった。

 

 

 

ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること

ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること

 

 

ドラゴン桜(1) (モーニング KC)

ドラゴン桜(1) (モーニング KC)

 

 

 

 

 

住宅街と図書館と、それから地球儀:モデルの意味

 ロードバイクで住宅街の中を走っていると、自分のいる道と交差する道が次から次へと現れる。それぞれの道は自分のいる場所からずっと奥に向かって伸びており、その両側にはたくさんの家が立ち並んでいる。

 小さい頃、図書館で本を読み漁っていたとき、あるいは単に図書館の中を歩き回っていたとき、私はここにある本のすべてを読み切ることなどできないのだということをあるとき自然に悟った。これはよくある経験である。そしてそこにある本は、世界に存在している本の中のごく一部に過ぎないということは、それからしばらくしてようやく理解した。

 こんなこともある。私は保育園にいた頃、死ぬまでに世界中の国々をすべてくまなく回ってみせると思っていた。世界にいくつの国が存在しているかなど知りもせず、どこにどんな国があるかもわからなかったけれど、ただ漠然と、地球儀のイメージだけをもとに、自分の一生は長く、まだまだ始まったばかりだ。これから死ぬまでの間に、根気よくやればきっと全ての国を回りきることができると素朴に思っていた。

 上にあげた3つの例のどれでも、今の私はその全てを網羅することはできないと感じるようになった。網羅とはなんだろう。世界は大きいが、自分が関わることのできる範囲はそのごく一部に過ぎない。自分の知っている、或いは知っていると思い込んでいるごく一部の範囲から、住宅街のすべて、図書館にある本のすべて、或いは地球全体の姿というものを、うまくつかむことはできるのだろうか。

 さいころを振れば、私はやがて起こりうる全ての場合を網羅することができる。起こりうる場合は全部で6通りで、しかもそれらは起こる確率が互いに等しいのだから簡単だ。地震はどうだろう。起こりうる地震というのをマグニチュード0(地震なし)からマグニチュード8くらいまでで考える。サイコロの場合よりは起こりうる状態の数が2つ増えた。これだけならまだいいが、地震の場合はそれぞれのマグニチュードの起こる確率が互いに等しくない。マグニチュードの大きい地震は滅多に起こらず、日本人の中でも、生きている間にマグチチュード0から3くらいまでしか経験したことのない人というのも過去にはいただろう。

 もしも全ての状態を網羅していないとしたら、自分の経験の中には存在しない出来事があるとしたら、人間は、そういう未経験のことがらについても、既知のことがらから正しく連想を行って理解することができるのだろうか。そういうことは震災の後で私たちが問われた問題だった。つまり、実際には東北の震災を直接経験はしていない多くの人々が、それでも震災を経験した人々に対してうまく想像力をはたらかせることができるかどうか、そして被災者とうまく助け合うことができるかどうか、という形で。

 ロードバイクで自分の走る道は、ありうる全ての道の中の1通りにすぎない。気分を変えようと考えて、違うコースを開拓したとしても、まだまだ十分でない。残されたコースは依然として残る。それでも私は、走っている道と、その周りに広がる街とをうまくつなげて捉えることができるだろうか。

 常に全体の中の一部にしかアクセスできない自分が、それでも全体について想像し、全体についてより正確な像を得ようとし続ける。Googleを使っても、全体像を捉えることなどできはしない。いや、場合によってはむしろ遠ざかると言ってもいいだろう。全体像を捉えるための深い思考を、それは妨げることがあるからだ。

 全体そのものを構成することはできない。だから私たちは全体の模造品を頭の中に形作る。その模造品は「モデル」と呼ばれる。モデルは確かに不完全だ。それはモデルとして不完全という意味ではない。それはかつてボルヘスが「学問の厳密さについて」*1の中で描いた、世界と同じ大きさの地図ではないという意味で完全ではない。しかしそんな意味で完全ではないということに何の意味があるというのか。世界はサイコロよりもはるかに複雑で、到底網羅などできはしない。どれほど記録をとり、どれほどのデータを高速に大量に処理したとしても、世界と全く同じものを構成することはできない。

 部分と全体が、うまく一対一に対応しない。リンクの失われた箇所があって、しかもそれは少なくない。それでも全体についてのイメージを描こうとする。今日もいつもと同じ道を使って家に向かう。

 

*1:

 

創造者 (岩波文庫)

創造者 (岩波文庫)

 

 


ランキングと記憶と銀行について

1. 私は時々、順序がつけられる前のウェブというものがどんなものだろうかと思ったりする。莫大な情報がなんの秩序(order / pattern)も持たずに散乱している広野のようなウェブというものを見ることはできるのだろうか、と。検索エンジンが、ニュースキュレーションアプリが、或いはSNSが、私個人に最適化した順序付けを実行してしまう前の、雑然としたページの大群、あるいはジャングルを自分で探検(searchでななく、exploreの方が近いだろうか)してみたくなるのだ。

2. ウェブ上で目にするページの多くは「順序がつけられた後」(ranked あるいはorderd)のものだ。情報が多すぎるのだからこれは当然といえば当然かもしれない。探索するには情報が多すぎる("Too much information to explore through"とでも言おうか)ということが検索エンジンという装置をランキングと結びつける動機にもなっている。

3. 「ネットサーフィン」という言葉がある。最近はあまり使われなくなった言葉だ。それは裏を返せば、ネットサーフィンという行為を支えるテクノロジーが、生活の中に浸透していって、多くの人々が、呼吸をするのと変わらない感覚でネットサーフィンを行うようになったことの裏返しなのだろう。「私は今まさに呼吸をしている」とわざわざ口にする人間はいないものだ。

4. さて、サーフィンをするためには、波にうまく乗らなければならない。それも自分のすぐ近くの波に。遠いところにある波に乗ることはできないのだ。乗るべき波を見つけることを実現しているのが検索エンジンだとするならば、もしもそれなしでウェブの海へ出れば、私はウェブに飲み込まれてしまうだけかもしれない。波には近いものも遠いものもなく、いろいろな方向の波が混じり合い、どの波に乗るべきか、どういう風にすれば波に乗ることができるのかわからずに、ただただサーフボードとともに海にのまれるだけになってしまうかもしれない。

ネットでExploreするということ

5. ところで、そもそも私はウェブで「サーフィン」をしたいのだろうか。ウェブ上でできることというのは、サーフィンだけなのだろうか。なるほどインターネットは情報の海であって、その中で移動するのであれば「サーフィン」という言葉で表現するのが適当かもしれない。しかし、そもそもネットという空間を喩えるのに、「海」しかないのだろうか。海以外の、そしてサーフィン以外のいい比喩はないのだろうか。冒頭では"surf"の代わりに "explore" という言葉を使ってみた。

6. Internet Explorerは、かなり初期からGoogleを使うことによってexploreする人が多かったから、"Explorer" のようで実態は "Searcher" になっているといえる。それでは言葉の本来の意味での "Internet Explorer" はどこかにあるのだろうか。ネットで何かを探すときには、当然のように検索エンジンが使われるようになり、今やその95%以上がGoogleによって行なわれている状況では、Searcherばかりになっているのかもしれない。

7. こんな風に「言葉」の問題にこだわるのは、あまり意味がないのではないかと思われる向きもあるかもしれない。いかにも文系チックな、あるいは哲学好きな「もの好き」とか「経済的利益など考えない暇人」の営みであると。しかし私から見れば、現実にネット上でやることは未だに「サーフィン」という感覚を中心にして回っているように思えてならない。ネットといえばネットサーフィンをするところであると。

8. 検索エンジンは図書館の「司書」(librarian)を参考にして、検索者が最も欲しがる情報を的確に探し出すことを目的として設計された。それは今も基本的には変わらない。検索エンジンの後でSNSが登場し、こちらは利用者の人脈を広げるだけでなく、その人脈を使って欲しい情報を探し出すという方向でも発展してきた。

9. ウェブというのは「蜘蛛の巣」であるから、検索エンジンSNSでは後者の方がウェブと相性がいいという見方もできるように思う。情報の網(ウェブ)を、人間の網(ソーシャルネットワーク)を使って探し出すわけだ。今でも、何か知りたいことがある場合、検索エンジンを使うよりも「しかるべき人」に相談した方が、自分の欲しい情報を探し当てられることが多い。例えば私はロードバイクであちこちを走り回るが、見知らぬ土地へやってきたとき、Googleマップを使って経路を考えるよりも、その土地の住人に道を聞く方が、具体的な経路をイメージしやすかったりする。

ExploreとMemory

10. 先日は割と分量のある文章で、グラフとランク付けの対応を中心にして検索エンジンの意味というものを考えた。SearchではなくExploreを行うためには、ネットを使うにあたってすっかり浸透しきっている「ランキング」というものから一度離れなければならない。

plousia-philodoxee.hatenablog.com

11. グラフをランク付けのリストに変換したりするのは、人間の記憶(memory)のしくみと関係があると私は思う。ここから第15段落までは、記憶と言っても「長期記憶」に限定して話を進めていく。完全記憶を持つ人間は、自分の経験した出来事や見聞きしたことなどを何ひとつ忘れることができず、苦しむことになる。記憶というと、「覚えること」の方と結びつけて理解されることが多いが、これでは片手落ちであって、忘れることの方も同様に重要であると考えなければならない。何を覚え、何を忘れるかという選択によって記憶が成立しているというのが、少なくとも生物にとっての記憶の意味ということになるだろう。覚えることと忘れることは記憶という一枚のコインの裏表をなしている。

12. コンピュータならいざ知らず、人間にとっては覚えておけることには限りがある。しかしだからこそ、覚えている事柄に価値が生まれる。経済学においては、資源の有限性が価値の大小と結びつけられるが、記憶という空間においても、資源の希少性が価値と結びついているということになる。

13. ランク付けのリストというのは、いわば人間の記憶の「代わり」なのではないだろうか。多くの人間が検索結果の1ページ目しか参照しないのは、多くの人間にとっては、思い出せる情報の量が検索結果1ページ分と対応するほどの量であるということなのではないか。私にはそんな風に思える。2ページ目以降はほとんど参照されなくても、存在していることがわかっていると、それらも自分の記憶と地続きであるかのように錯覚してしまわないだろうか。本当はそんなことは全くないのに。

14. 検索エンジンでは、たとえ私たちが見ないとしても、200位と201位のランキングが行われている。その二つのページのランク付けは、私たちの多くにとって意味をなさない。それは私たちがものを考えるときに思い出されないでいる事柄どうしの関係を扱うものだ。

15. ソクラテスは『パイドロス』で、彼の知人パイドロスと木陰で始終語り合う。対話の中で、人間が文字(書き言葉)を使って考えを記録しておけるようになったことによって、記憶力が衰え、ひいては思考力が衰えてバカになってしまうのではないかという懸念を示す場面がある。これは書き言葉に対する話し言葉の優位という文脈で論じられることもあるが、ここではこれとは別の文脈、つまり検索エンジンとの関係から考えてみたい。検索エンジンが、基本的には文字によって記述されたページの解析によって成立しているのは、パイドロスにおけるソクラテスの弁の意味では、人間の記憶と逆行する皮肉のようでもある。こうして「ネット検索は我々をバカにする」だとか、「ネット検索をする者はバカ」*1といった議論が生まれることにもなる。あるいは「記憶の外部化」という形で論じられることもある。

 

16. …と、第10〜14段落までは「記憶」といっても「長期記憶」に絞って話を進めてきたが、人間の記憶には短期記憶もある。人間がものを考える時、時間が経ってもいつでも思い出せる記憶(長期記憶)だけに基づいて考えを展開していくわけではなく、一時的に記憶している事柄も使って考えることはできる。ネットで何かを検索する時にも、この一時記憶を活用することによってものを考える手助けとすることはできる。一時的な保管庫に新しい情報を蓄えていって、それらと長期保管庫の情報との両方を組み合わせて思考を展開しているというのが人間にとっての日常の思考の実態なのではないだろうか。

17. 多くの人間にとって、理論上はもっと多くの事柄を長期記憶の領域に蓄えることができるとしても、現実にそこに預けられている記憶の量は一定量を超えない。辞書1冊分にも満たない量の情報しか記憶されていないかもしれない。その量で生きているのが人間なのだ。

18. 記憶を蓄えておく場所を指して「保管庫」と表現したが、これは「預金口座」に喩えることもできる。多くの人は、実際にはどんな金額でも預けることができるとしても、一定量の金額しか口座には預けない。もちろんそれはその預金額に比例する所得を稼ぐ人が多いからであって、人々がもっと多くの金額を稼ぐようになれば、それに応じて平均的な預金額も増えることになるだろう。しかし比例定数は増加しない。所得の3割を貯金する人は、稼ぐ金額が増えても貯金する割合は3割のままだろうと思われる。

教養とExplore

19. すぐに引き出して使うことのできる知識を「教養」と呼んだりすることもある。単に「知っている」だけの状態では、いつでも引き出して使いこなすことができる状態とは違い、それでは教養があるとは言えない、と。教養というのは本をたくさん読めば身につくというものでもない。それは言い換えれば、情報量を増やしても教養が身につく保証はなく、1冊1冊の本を丁寧に読むことによって、それほど多くの本を読んだわけではなくても、ちゃんと「教養」と呼べるものを身につけている人もいる。教養は本の読み方に依存して決まる。教養にもとづいてものを考えられるようになるためには、ある程度の集中力が必要になる。一定の範囲に限定して、その中だけで活字を追っていく。そして同時に、自分の頭をはたらかせて考え続けることで、初めて教養が身につく。そしてこれは、記憶と結びつけて考えるならば、長期記憶の領域の情報だといえる。一時的に吸収して利用するものを教養とは呼ばない。文字どおり、その人の血となり肉となっていなければならないのが教養である。

20. それでは、人間の持つ記憶と、ランキングが「資源の有限性」を媒介にして結びついているのだとしたら、ランキングから距離を取るのはそう簡単ではない。しかし、預金口座の比喩(第17段落)や教養について言及した箇所(第18段落)で述べたように、人間は長期記憶だけでものを考えているわけではなく、一時的に記憶した情報を使ってものを考えることもできる。ネットで検索をすればするほど、私たちは長期記憶をおろそかにするようになる。長期記憶をおろそかにするということは、その領域で醸成される教養にもとづいてものを考えることをおろそかにすることにもつながる。ネットがどんどん普及すればするほど、巷の書店では「教養本」があふれかえるようになっているのは、無関係ではない。ネットを使っていても教養は身に付かず、したがって体系的にものを考える術が身に付かないために、教養を身につける必要性は高まるのだ。

21. 人々はどこかから引き出してきたお金を、まるで自分のお金ででもあるかのように扱い、預金口座に預けられている金額は一向に増えない。ネットを使うということがそういうことにしかならないのだとしたら、これほど情報が溢れかえっているというのに、なんという大いなるムダであることだろうかとすら思う。預金口座の残高を増やし、そこに作り上げられていく教養の樹を豊かにしなければ、たくさんの情報を簡単に集められても一向にものを考えられるようにはならないだろう。

 

*1:

 即座に思いつく文献をあげると次のようなものがある。もっとも、この本のどちらも直観的に「ハズレ」のような気がして、私は読んでいない。私個人にとっては「筋の悪い議論」としか思えなくとも、ある程度は世間の中で話題になっているテーマではあるらしいので一応取り上げた。

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

 
ニュースをネットで読むと「バカ」になる

ニュースをネットで読むと「バカ」になる